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飛鳥(古代)


 大和期から見える地名。「古事記」履中段に「遠飛鳥」「近飛鳥」についての地名起源説話が見える。すなわち履中天皇の即位前,父仁徳天皇の難波宮に居住していた頃,同母弟の墨江中王は酔って寝ている兄を殺そうとして大殿に火を放った。その時阿知直の手引で難を逃れた履中は,河内の多遅比野,波邇賦坂,大坂の山口,当岐麻路を経て石上神宮へ入った。この時,別の弟水歯別命が参上してきたが,天皇は彼も墨江中王と同心かと疑い,邪心がなければ墨江中王を殺して来いと追い返した。そこで水歯別命は難波にひき返し,墨江中王に近侍していた隼人の曽婆訶理【そばかり】をだき込み,王を殺させた。そして曽婆訶理を伴って石上に向かったが,途中で彼を殺してしまった。水歯別命は「其の隼人の頸【くび】を斬りたまひて,乃ち明日【あす】上り幸【い】でましき。故,其地を号けて近飛鳥と謂ふ。上りて倭に到りて詔たまひしく,今日はここに留まりて祓禊【はらへ】をして明日参出【まいで】て神宮を拝まむとす,とのたまひき。故,其地を号けて遠飛鳥と謂ふ」と見える。飛鳥を明日にかけて説明し,遠飛鳥は大和の飛鳥(現明日香村),近飛鳥は河内の飛鳥(現大阪府羽曳野市飛鳥)とし,それは水歯別命(反正天皇)の河内丹比の柴垣宮からの遠近によって称したと考えられている。一方允恭天皇は「遠飛鳥宮」(古事記允恭段・万葉集90左注),顕宗天皇は「近飛鳥八釣宮」(顕宗紀元年正月己巳条)に居住したという。この遠近が「古事記」の説話に基づくものか明らかではない。両宮とも大和に所在し,「記」「紀」成立当時の藤原京または平城京からの地理的距離に基づくとする説や時代の新旧によるとする説もある。また雄略朝に倭国の吾砺【あと】の広津【ひろきつ】邑に安置した渡来人が多数病死したので,新漢陶部・鞍部・画部・錦部・訳語らを「上桃原・下桃原・真神原の三所に遷し居らしむ」とある(雄略紀7年是歳条)。桃原は現在の明日香村島庄に比定され(推古紀34年5月丁未条),真神原は「むかし明日香の地に老狼在りて,おほく人を食ふ。土民畏れて大口の神といふ。その住める所をなづけて大口真神原といふ」とあり(大和国風土記逸文/枕詞燭明抄中),また崇峻朝に「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊ちて,始めて法興寺を作る。この地を飛鳥の真神原と名付く。亦は飛鳥の苫田と名く」とあるところから(崇峻紀元年是歳条),飛鳥の一部で飛鳥寺周辺に比定される。「万葉集」巻2に「高市皇子尊の城上の殯宮の時,柿本朝臣人麿の作る歌」として「明日香の 真神原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまいて」(199)とあることから,天武天皇の浄御原宮が当地に存在したと考えられる。飛鳥衣縫については,雄略朝に「漢織【あやはとり】・呉織【くれはとり】の衣縫は,是飛鳥衣縫部・伊勢衣縫が先【おや】なり」と見え,身狭村主青が呉国から連れ帰った技術者の子孫と伝承される(雄略紀14年3月条)。飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を壊して建立された飛鳥寺は,「蘇我大臣,亦本願の依に,飛鳥の地にして,法興寺を起つ」(崇峻即位前紀用明天皇2年7月条)とあるように,蘇我氏の氏寺で法興寺,元興寺とも称した。「書紀」や「元興寺縁起」(寧遺中)によると,崇峻天皇元年に百済王が送った僧や寺工・露盤工・瓦工・画工が造営に参画している。その後「山に入りて寺の木を取る」(崇峻紀3年10月条),「大法興寺の仏堂と歩廊とを起つ」(崇峻紀5年10月是月条),「仏の舎利を以て,法興寺の刹の柱の礎の中に置く」(推古紀元年正月丙辰条),「刹の柱を建つ」(同前丁巳条),「法興寺,造り竟りぬ。則ち大臣の男善徳臣を以て寺司に拝【め】す。是の日に,慧慈・慧聡,二の僧,始めて法興寺に住り」(推古紀4年11月条)と見え,推古天皇4年に寺は完成した。推古天皇13年仏工鞍作鳥に命じ,銅と刺繍の丈六釈迦像を造り(推古紀13年4月辛酉条),翌年金堂に安置した(推古紀14年4月壬辰条)。一方「元興寺縁起」によれば,高麗王が送った塗金用の黄金320両が推古天皇16年に日本に着き,同17年4月に金銅像として完成,金堂に安置したとある。法興寺の槻の樹の下で中大兄皇子や中臣鎌足は打毬を行ったと伝えられ(皇極紀3年正月乙亥条),皇極天皇4年飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した中大兄らは法興寺に籠り城として備えた(皇極紀4年6月戊申条)。また中大兄の異母兄古人大兄皇子は即位を要請されたが辞退し,法興寺の仏殿と塔の間で剃髪した(孝徳即位前紀)。斉明天皇3年須弥山の像を飛鳥寺の西に築いた(斉明紀3年7月辛丑条)。天智天皇10年天皇の病により,袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香や珍財を法興寺の仏に奉った(天智紀10年10月是月条)。壬申の乱に際し,大伴吹負らは百済の家から飛鳥寺の北の路を通り,寺の西に宿営していた近江方の軍勢を奇襲した(天武紀元年6月己丑是日条)。天武天皇6年天皇は飛鳥寺に設斎し,一切経を読ましめ,自身は寺の南門に御して三宝を礼拝した(天武紀6年8月乙巳条)。同年2月多禰島人らを飛鳥寺の西の槻の下で饗宴した(天武紀6年2月是月条)。同様の記事は以後もしばしば見える(天武紀10年9月庚戌条・同11年7月戊午条・持統紀2年12月丙申条)。大化改新の際,「大槻の樹の下」で行われた誓約も同地か(孝徳即位前紀皇極天皇4年6月乙卯条)。同9年飛鳥寺は官司が治める例ではないが,先例や功績により,特に官治の例に入れられた(天武紀9年4月是月条)。また寺の西の槻の枝が折れたともある(同前7月甲戌条)。同年飛鳥寺在住の僧弘聡が没している(同前癸巳条)。天武天皇13年飛鳥寺の僧福楊は罪により入獄(同前13年閏4月乙巳条)。同14年天皇は飛鳥寺へ行幸し,珍財を仏に奉り礼拝(同前14年5月庚戌条),9月には天皇の病により3日間,経を大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦ませ,稲を施入した(同前9月丁卯条)。朱鳥天皇元年天皇の病のため珍宝を三宝に奉った(天武紀朱鳥元年6月甲申条)。天皇の没後,百ケ日にあたり無遮大会を大官・飛鳥・川原・豊浦・坂田の5か寺に設け(持統即位前紀12月乙酉条),持統天皇元年には,300人の大徳を飛鳥寺に集め袈裟を与えている(持統紀元年8月己未条)。奈良期に入ると霊亀2年に備中国浅口郡犬養部鴈手は昔飛鳥寺の塩焼戸に配されていたので,誤って賤例に入れられたことを訴えている(続紀霊亀2年8月癸亥条)。なお僧道昭は壬戌(天智天皇元)年3月,禅院寺を本元興寺東南隅に創建したと伝えられる(三代実録元慶元年12月16日条)。平城遷都により,養老2年に法興寺は平城京左京5条7坊に移され元興寺となったが,金堂・塔などは旧地に残り本元興寺と称された(続紀養老2年9月甲寅条)。なお霊亀2年にも元興寺を左京6条4坊に移転した記事があるが(続紀霊亀2年5月辛卯条),これは大安寺と考えられている。天平20年元正太上天皇の初七日にあたり,飛鳥寺で読経したとある(続紀天平20年4月丙寅条)。さらに奈良期の文書にも同寺の名は多く見える(近江石山寺所蔵天平2年2月10日僧賢証書写瑜伽師地論願文/大日古編年24,正倉院文書天平3年8月10日写経目録/同前7,同前天平勝宝3年6月15日僧宣教疏本目録/同前12,同前天平勝宝6年5月23日写経請本状/同前4など)。宝亀11年12月10日太政官符(新抄格勅符抄)には,「飛鳥寺一千八百戸」として「癸酉年施千七百戸,宝亀十一年五月符加百戸,白壁天皇,上総五百戸 常六(陸カ)二百戸 信乃三百卅戸 武蔵四百十五戸 下野二百戸 越前百五十戸」とある。承和10年仁明天皇の勅により毎年6月15日に万花会,10月15日に万灯会を修することが恒例とされ,その料として油1石・正税300束が故京の本元興寺に充てられた(続後紀承和10年5月甲寅条)。「霊異記」上巻第3話に元興寺に居住した道場法師についての奇異譚がある。尾張の農夫が落雷を助けて強力の子を授かること,朝廷の力王と力比べをし,元興寺の童子となり悪鬼退治をすること,元興寺の優婆塞となり寺田引水の妨害を排除することなどが記されている。同書上巻第2話,中巻第4・27話にも関連説話が見え,「本朝文粋」「扶桑略記」「水鏡」などに類話がある。その後建久7年6月に雷火で金堂と塔が焼け,本尊は仏頭と手だけが残った(古今目録抄・上宮太子伝私記)。以後同寺は衰微していった(太子伝玉林抄)。発掘調査によれば,塔を中心にして東西と北に金堂を配し,塔前の中門の左右から回廊が延び塔と3金堂を囲み,中門の前に南大門,回廊の北に講堂,回廊の西に西大門があり,これら大門に続く外郭の築地があった(飛鳥寺発掘調査報告/奈文研学報5)。「万葉集」巻3に「長屋王の故郷の歌」として「古家の里の明日香」(268)と詠まれ,「右,今案ふるに明日香より藤原の宮に遷りし後,この歌を作るか」という左注がある。また山部宿禰赤人の作る歌に「明日香の旧【ふる】き京師【みやこ】」(324)ともある。ただし両歌ともに広義の飛鳥(藤原京)を詠んだとも考えられる。巻6には「大伴坂上郎女の元興寺の里を詠ふ歌」として「故郷の飛鳥」と「平城【なら】の明日香」(992)が対比的に詠まれている。巻16には「今日今日と飛鳥に到り」(3886)とある。藤原宮出土木簡に「飛鳥布」の墨書が見える(藤原宮木簡1解説No236)。朱鳥元年「幣【みてぐら】を紀伊国に居す国懸神・飛鳥の四社・住吉大神に奉りたまふ」と見え,天武天皇の病気回復のために飛鳥坐神社4座に奉幣がなされた(天武紀朱鳥元年7月癸卯条)。天長6年,「大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社を同郡同郷鳥形山に遷す。神託宣に依るなり」とあり,甘南備山から鳥形山に遷されたという(紀略天長6年3月己丑条)。鳥形山は現在の明日香村飛鳥の字神奈備に比定されるが,旧鎮座地である甘南備山については雷【いかずち】丘・甘樫丘・橘のミハ山などに充てる説があり一定しない。貞観元年「飛鳥神」に風雨祈願のため奉幣されている(三代実録貞観元年9月8日条)。貞観10年,大社の封戸をもって小社を修理すべきことの例に飛鳥神の4裔神が見え,天太玉・臼滝・賀屋鳴比女神の各社があげられている(貞観10年6月28日符/三代格1)。「延喜式」神名上の高市郡54座のうち,「飛鳥坐神社四座」および「太玉命神社四座」「櫛玉命神社四座」「加夜奈留美命神社」「飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社」に比定される。同書出雲神賀詞に「かやなるみの命の御魂を飛鳥神なびに坐せて,皇孫の命の近き守神と貢り置きて」とある飛鳥神奈備坐神が「飛鳥坐神社」とされる。同社は「飛鳥社四座」として相嘗祭71座の中に見え,絹8疋・糸12絇・綿12屯・調布12端・庸布6段8尺・木綿6斤8両・酒稲200束(108束神税・92束正税)などが充てられ(延喜式四時祭下),祈雨神祭85座の中にも見える(同前臨時祭)。また「延喜式」神名上には高市郡54座のうちに「飛鳥山口坐神社」がある。「新抄格勅符抄」所収の大同元年牒によると「安宿山口神十四戸〈大和四戸 播万(磨カ)十戸〉」と見える。貞観元年従五位下から正五位下に昇叙され(三代実録貞観元年正月27日条),使者を派遣して奉幣,風雨祈願がされている(同前9月8日条)。「延喜式」祈年祭・六月月次祝詞に「山の口に坐す皇神等の前に白さく,飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は白して」と見える大和6処山口社の1つ。祈雨神祭85座の1つでもある(延喜式臨時祭)。「五郡神社記」は「飛鳥水分神社,帳云高市郡飛鳥山口坐神社一座,在賀美郷飛鳥山裂谷〈亦曰山口坐神〉為飛鳥川川上」と記し,飛鳥山の裂谷に同社が鎮座すると見える。飛鳥山の所在地は明らかでないが,現在の明日香村飛鳥字阪谷山あるいは「紀略」に見える神奈備山と同地か。現在は明日香村飛鳥字神奈備に飛鳥坐神社の末社として同社境内に鎮座する。地名にちなむ氏族としては,飛鳥村主(坂上系図所引姓氏録逸文/続群7下),飛鳥直(姓氏録大和国神別),飛鳥衣縫部(雄略紀14年3月条),飛鳥衣縫造(崇峻紀元年是歳条)などがおり,大蔵省所属の蔵部60人の中に「飛鳥沓縫十二戸」が見える(令集解職員令大蔵省)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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