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櫟本(古代~


 奈良期から見える地名。添上郡・山辺郡のうち。櫟ともいい,市本・一本とも書く。①櫟本荘。櫟荘ともいう。東大寺領。当荘は中世には聖武天皇勅施入の荘園と伝承されていたが(東大寺文書/鎌遺16330など),確かにその所見は古く,天平10年8月15日粟籾検定啓(正倉院文書/大日古編年2)に「櫟本庄収納四百六十三斛」とある。次いで,朝廷は神護景雲3年12月から翌年4月にかけて造東大寺司に命じて当荘の開発を推進し,「櫟本庄田」を灌漑するために高橋川(現在の高瀬川)に井堰を設けて引水,溜池3か所を造成した。これに人夫1万1,593人を使役し,銭132貫余・米322石余を費やしたという(東大寺要録巻2/続々群11)。なお大治5年東大寺諸荘文書并絵図等目録(百巻本東大寺文書/平遺2156)に「櫟庄 池図一禎字桜田 神護景雲年中」とある。天暦4年11月20日付東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書/同前257)には「同(添上)郡櫟本庄田卅町五段七十二歩……定田十七町七段百六十二歩」とある。保延3年検田帳(石崎直矢氏所蔵文書/同前2374)によれば田畠41町4段,荘田畠は添上郡京南5条3~5里,6条3~5里の合計41か坪にわたって,ほぼ2か所にまとまって分布する。これは現在の天理市櫟本町の西部にあたる。また保延5年検畠帳(水木直箭氏所蔵文書/同前2409)では田畠のうち畠は7町240歩。年貢は東大寺大仏殿長日仏聖・八幡宮日次御供や花厳会・仏生会・伎楽会・法華会・大仏供・万灯会・手掻会御祭用途料・恒例倶舎三十講世親講・戒温室田・法華三昧供など東大寺の主要な法会・講会の用途に充てられる東大寺の重要な所領で(東大寺文書/鎌遺16330),臨時に東大寺別当南都下向時の人夫・伝馬などの雑役が課せられる場合もあった(東大寺図書館所蔵倶舎論裏文書・東大寺文書/同前1403・5529)。文永年間には当荘百姓明定得業が罪科によって名田を没収され,興福寺が点札を立てたために当荘百姓らと興福寺の相論となっている(東大寺文書/同前11640・11641・11642)。②櫟北荘。東大寺尊勝院領。櫟荘・櫟本荘ともいう。康保4年7月3日付施入状(東大寺続要録諸院篇)に「添上郡……櫟北庄」とあり,尊勝院の本願光智から同院に施入された根本所領の1つ。嘉承3年正月29日付荘田充行状(百巻本東大寺文書/鎌遺1686)によれば「尊勝院櫟庄田」1町5段の永作手が同院主から田堵丹治牛犬に充行われ,同院への加地子・所役の納入が命じられている。この荘田の坪付は添上郡京南4条4里30坪,5条5里4坪で,香菜免櫟北荘と重なる。現在の大和郡山市石川町・天理市櫟本町のうちにあたる。承安4年には田堵物部力寿丸が「櫟本御庄田八段」の公事勤仕について下司と相論,尊勝院に訴えた(東大寺図書館本春華秋月抄1/平遺3655)。③櫟北荘。東大寺雑役免(香菜免)荘園。東大寺大仏供白米料所。寛弘7年8月22日付東大寺牒(東大寺要録巻6封戸水田章8)に「添上郡五所……櫟北庄」とある。当荘は大和国衙の賦課する臨時雑役を免除されて,東大寺に香菜を備進した。11世紀後半とみられる東大寺雑役免帳(同前)には「櫟北庄六町七段」と記す。大治2年には防河人夫役,平治元年には野宮柴垣役などしばしば一国平均役を負担させられた(京大所蔵東大寺文書・東大寺文書/平遺2113・3022)。また永暦2年7月18日付東大寺仏聖米返抄(東大寺文書/同前3129)に「納仏聖米壱斗三升事 右,櫟北庄当年御官物米之内,則直之上,且所納如件」。12世紀には臨時雑役のほかに国衙の官物の一部が仏聖供白米に充てられ東大寺が収取するようになった。当荘の仏聖米上納者には則直・永則・真久・則真・常永・安住らの百姓がおり,荘内には預所佃も設けられていた(同前/同前3130~3132・3173~3177)。康和5年櫟北荘稲吉名負田坪付(尊経閣所蔵文書/同前1531)によれば地積9町のうち畠8段・田8町2段(損田5町7段),荘田は添上郡京南4条4・5里,5条4・5里にわたる合計13か坪に散在・分布した。この坪付は現在の奈良市石川町,天理市楢町・櫟本町に及ぶ。なお文治4年正月22日付在家注文(東大寺文書/鎌遺298)では「東大寺北櫟雑役庄内在家別」として荘内に在家8家があったという。④櫟荘。東大寺東南院領。嘉禄元年11月5日付官宣旨案(東大寺文書/鎌遺3427)に東南院門跡相伝所領として「大和国拾壱箇処……櫟庄」とある。しかし当荘はこれ以前に院主によって売却され,すでに有名無実となっていたらしい(東大寺続要録諸院篇)。⑤櫟本荘。北櫟本荘ともいう。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「櫟本庄負田卅二町四段二百廿歩」とある。荘田は公田畠16町8段80歩と不輸免田畠15町6段からなり,不輸免田畠の内訳は長寺田6町9段208歩・西金堂田1段・膳夫寺田2町・柿本寺田1町120歩・小一条院田1町1段・伝法院田1町6段・春日神戸田2町3段60歩・官田1町。添上郡京南5条4・5里,6条4~9里にわたる55か坪に散在・分布した。この坪付はほぼ現在の天理市櫟本町の範囲に収まる。鎌倉期,正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(興福寺文書/鎌遺15590)に「北櫟本庄米八石四斗六升四合……餅三百卅六枚」とあるのが当荘に相当し,興福寺維摩会の用途を負担している。⑥櫟本片荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。櫟本北荘・北櫟本荘ともいう。延久2年の雑役免帳に「櫟本片庄二町八反半」とある。荘田は公田畠1町8段180歩と不輸田畠1町からなり,不輸田畠の内訳は伝法院田6段・石上寺田4段。山辺郡6条4・5里,7条3里にわたる合計6か坪に散在・分布した。この坪付は現在の大和郡山市新庄町および天理市櫟本町の南西部にあたる。鎌倉期,正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(興福寺文書/鎌遺15590)には「櫟本片庄米九斗二升五合……餅三十七枚」と見え,興福寺維摩会の用途を負担した。⑦南櫟本荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「南櫟本庄十町」とある。公田畠5町1段300歩と不輸免田畠4町8段60歩からなり,不輸免田畠の内訳は春日神戸田2町・民部卿御位田1町・小一条院位田9段240歩・石上寺田2段180歩・法興院田6段。山辺郡6条3・4里の合計15か坪にほぼ一円的に分布した。この坪付は,雑役免櫟本荘田の南方,現在の大和郡山市新庄町の東部および天理市櫟本町の南西部にあたる。鎌倉期,正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(興福寺文書/鎌遺15590)には「南櫟本庄二石五斗八升三合……餅百三枚」とあり,興福寺維摩会の用途を負担している。⑧南櫟本荘。興福寺寺務領。雑役免南櫟本荘の後身らしい。永享11年9月晦日付会所目代方収納分注文(天理図書館所蔵文書)に「一,南櫟本庄 正長元年納分 会米弐石五斗八升三合 使米六斗 土毛壱石壱斗 菜米七斗弐升 数米五升一合七夕二才」と見える。興福寺別当配下の会所目代らが管掌した。⑨櫟本荘間田。一本荘とも書く。大乗院門跡寄所(喜多院二階堂負所)。「三箇院家抄」巻2に「櫟本庄間田〈一丁,エノコ田,添上郡〉」。この間田は添上郡5条4里13坪を占めた。また大乗院門跡御童子の給分とされ,二階堂に負所米2石9斗4升を上納することになっていたが,室町期には無沙汰されている(三箇院家抄1・2)。この坪付は現在の天理市櫟本町の北西部,大和郡山市石川町との境界付近にあたる。⑩櫟本荘。春日社節供料所。一本とも書く。「中臣祐重記」養和2年7月7日条(春日社記録1)に「御供奉備次第,日並御供,次櫟本御供,七本」,「中臣祐賢記」文永2年7月7日条(同前)に「御節供ヲウチ・一本・西殿」などとあるのをはじめとして,毎年7月7日に春日社節供を調進した。戦国末期,「春日社司祐金記」天正12年7月7日条(大日料11‐11)にも「御節,日並朝夕,神戸小庄・大庄・櫟木ヨリ参」と見える。⑪北櫟本荘。建春門院法華堂領。藤原長兼の日記「三長記」建仁元年7月26日条に「建春門院法華堂領大和国北櫟本庄訴事,西金堂衆濫妨事,仰,可仰雅縁僧正」と記す。当地は櫟本氏の本拠地。同氏は至徳元年の長川流鏑馬日記に「櫟本殿」と見え,一族に櫟本辻子氏・櫟本鳥居氏・櫟本小林氏などがある。室町期には櫟本辻氏(単に辻子ともいう)が衆徒として活躍した。同氏は大乗院門跡坊人で,門跡に兵士役などを勤める一方(寺社雑事記長禄2年7月1日条),門跡領上総【かんさ】荘下司職を給与された(同前文明元年12月21日条・三箇院家抄1)。応仁・文明の乱では畠山政長与党の筒井・十市氏派であったが,文明9年畠山義就の河内下向に伴い,越智・古市氏の勢力が強まると,在所から没落し,当地には衆徒豊田氏が進駐した(寺社雑事記文明9年10月26日条・多聞院日記文明10年9月10日条)。櫟本辻子氏の所領は闕所地となり,越智氏と古市西氏でその扱いが協議されている(寺社雑事記文明12年8月20日条)。文明11年に東山内の筒井方が当地に出陣,正法寺を焼き,これに対して越智方が櫟本鳥居城を攻めたが,筒井方はその後も当地に出張しては抗戦を行った(同前文明11年10月21日・17年11月16日条)。永正3年大和に侵入した赤沢朝経軍を迎え撃つ筒井与力衆内衆は豊井から当地にかけて布陣,続く合戦では櫟本鳥居越後とその若党が討死している(多聞院日記永正3年8月22日・同24日条)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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