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小墾田(古代)


大和期から見える地名小治田・少治田とも書く安康天皇が眉輪王に殺された時,大長谷王(のちの雄略天皇)は兄の白日子王のもとに至って,その有様を告げたが,黒日子王と同様,王は驚かず気にもかけなかったので,大長谷王はその衿を握って引き来て,「小治田」に穴を掘って埋め殺したとある(古事記安康段)安閑朝に「小墾田屯倉」と国毎の田部とを,許勢男人大臣の女,紗手媛に与えたとあり(安閑紀元年10月甲子条),早くから開発が進んでいたと考えられるなお現在の明日香村小山には「犬飼」の小字が残り(大和地名大辞典),犬飼地名と屯倉との深い関係を想起するならば,この付近が比定地とも考えられる欽明天皇13年百済の聖明王が欽明天皇に献上した仏像を授けられた蘇我稲目は「小墾田の家」に安置し,次いで向原の家を浄めて寺としたとある(欽明紀13年10月条)これがのちの小墾田豊浦寺で,朱鳥元年には「天渟中原瀛真人天皇の奉為に,無遮大会を五つの寺,大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田に設く」と見える(持統即位前紀朱鳥元年12月乙酉条)現在の明日香村豊浦の向原寺(豊浦寺)付近が小墾田の一部であったらしい「新抄格勅符抄」によれば,天平宝字7年封戸50戸が施入された寺院に豊浦寺と小治田寺が見える小治田寺は天平勝宝2年先に金光明寺へ施入された3人の島宮奴婢をもとのごとく「小治田禅院」に住まわせたとある禅院と同寺であろう(東南院文書天平勝宝2年5月11日治部省牒/寧遺下)しかし平城京でも左京1条5坊に相当する旧奈良高校校庭の井戸から「少治田寺」と墨書した土器が出土しており,平城京に存在したか,あるいは飛鳥古京に存したか明らかではない(明日香村史上)推古天皇11年同天皇は豊浦宮から「小墾田宮」に一時移り住んだとある(推古紀11年10月壬申条・皇極紀元年12月壬寅是日条・同2年4月丁未条)「古事記」推古段には「豊御食炊屋比売命,小治田宮に坐しまして,天の下治らしめすこと,参拾漆歳なりき」とある斉明天皇元年「小墾田」に瓦葺の宮殿を造営しようとしたが,そのための適当な木材が不足したので中止したという(斉明紀元年10月己酉条)壬申の乱の際には,「小墾田の兵庫」の名が見え(天武紀元年6月己丑是日条),現在の橿原【かしはら】市南浦に兵庫田の小字が残る(大和地名大辞典)奈良期に入り,天平宝字4年に播磨国糒1,000石・備前国500石・備中国500石・讃岐国1,000石を「小治田宮」に貯えたとあり,「小治田宮」に行幸して,天下諸国当年の調庸を収納したとある(続紀天平宝字4年8月辛未・乙亥条)「新京」(続紀天平宝字4年8月己卯・癸未条)とも表現され,翌年8月まで淳仁天皇は当地に居住,「小治田宮」のほか,「小治田岡本宮」(続紀天平宝字5年正月癸巳条),「武部曹司」(続紀天平宝字5年正月丁酉条)が存した以上によると,当地には推古朝から奈良期にかけて,宮殿・兵庫・倉庫・官衙などの諸施設が存在したしかし推古朝の小墾田宮と奈良期の小治田宮との関係は明らかでないまた天平神護元年に称徳天皇は紀伊国へ行幸の途中,「大和国高市郡小治田宮」に寄ったとある(続紀天平神護元年10月辛未条)「古京の小治田宮の北」に雷【いかずち】丘が位置したとも見える(霊異記上1)小墾田宮の比定地は藤原京左京12条2坊にあたる現在の明日香村豊浦字古宮とする説が有力であるなお平城宮朱雀門北方の溝から「左京小治町」と記された過所木簡が出土したが,出土地が平城宮造営以前においては下ツ道の側溝であることから,左京小治町は藤原京内で,小治田を示すと推定される(平城宮木簡2解説No1926)当地に宮居を設けた推古天皇は「少治田宮御宇天皇」(上宮聖徳法王帝説/寧遺下),「小治田大宮御宇天皇」(法隆寺資財帳/同前中),「小治田宮御宇推古天皇」(延喜式諸陵寮)などと一般に称された「播磨国風土記」揖保郡大法山条に見える「小治田河原天皇」も同様であろう地名にちなむ氏族としては,「小墾田采女」(允恭紀5年7月己丑条)が見え,「姓氏録」には「小治田朝臣」(右京皇別上),「小治田宿禰」(左京神別上),「小治田連」(右京神別上)の3氏を載せる小治田朝臣は武内宿禰5世孫稲目宿禰の後とされ(姓氏録・古事記孝元段),旧姓は臣で天武天皇13年に朝臣姓を賜っている(天武紀13年11月戊申条)「五郡神社記」治田神社条には社家小治田臣に伝えられた大地主神による開墾伝説が見える一方小治田宿禰は石上朝臣と同祖で,欽明天皇の代に「小治田の鮎田」を開墾した功により小治田大連を賜ったという(姓氏録)「万葉集」巻13に「小治田の年魚道【あゆち】の水を」(3260)と詠まれた地と同地か両者を尾張の愛知郡に比定する説もある小治田宿禰の旧姓は連で,天武天皇13年に宿禰の姓を賜った(天武紀13年12月巳卯条)なお「旧事紀」天孫本紀は,饒速日命の4世孫大木食命の弟に六見宿禰をあげ,「小治田連等祖」とする「姓氏録」に見える小治田連も石上朝臣と同祖で,小治田宿禰が本宗氏族であろう天武天皇12年「小墾田儛」および高麗・百済・新羅,三国の楽を庭中で行ったとある(天武紀12年正月丙午是日条)小墾田儛とは,推古天皇20年に百済から渡来した味摩之が桜井で伎楽を少年たちに教えたとある舞を示すか(推古紀20年是歳条)「万葉集」には,「小墾田の板田の橋の壊れなば桁より行かむな恋ひそ我妹」(2644)ともある現在の明日香村豊浦付近を中心に大官大寺跡,天ノ香久山の南あたりまでを含むと考えられる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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