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葛上郡


飛鳥期から見える郡名。文献上の初見は「続紀」文武天皇4年11月壬寅条で,「大倭国葛上郡鴨君粳売一つに二男一女を産む。絁四疋,綿四屯,布八端,稲四百束,乳母一人を賜ふ」とある。ただし,文武天皇4年は浄御原令制下であり,郡制はまだ施行されていないので,原史料には葛上あるいは葛木上評とあった可能性が高い。文武朝に伊豆島へ流された役小角は(続紀文武天皇3年5月丁丑条),「霊異記」上28に「大和の国葛木の上の郡茅原の村の人なり」とある。続いて,奈良時代前期と推定される長屋王家木簡に「葛木上郡賀茂里米一石」と墨書したものが見える(長屋王家木簡の概要No91)。天平宝字2年に当郡の人従八位上桑原史年足らの男女96人に桑原直を賜ったことが見え(続紀天平宝字2年6月乙丑条),同8年には法臣円興やその弟中衛将監下賀茂朝臣田守らの言により,雄略天皇が葛城山から土佐へ流した高鴨神を当郡に復祀している(同前8年11月庚子条)。神護景雲3年,当郡の人正六位上賀茂朝臣清浜に高賀茂朝臣を賜り(同前神護景雲3年庚辰条),延暦元年,謀反が露見して京から逃走していた氷上真人川継は当郡で捕らえられたという(同前延暦元年閏正月丁酉条)。なお,天平年間の農事慣行として宇智郡や葛上・葛下郡では,添下・平群郡よりも1~2か月遅れて旧暦の5~6月に植え付け,7~8月に収穫した(令集解仮寧令在京諸司給仮条古記)。また,天平勝宝年間の奴婢見来帳(東大寺文書/寧遺下)によれば,天平10年に逃亡した奴小足は当郡柏原郷の柏原造種万呂の家に5年間役せられ,さらに5年後にも同郷の柏原造奈兄佐に3年間役使されていた。平安期に入り,大同元年には,当郡の高天彦神が井上内親王の願により以後四時幣帛にあずかり(後紀大同元年4月己未条),承和6年には名神とされた(続後紀承和6年5月丙午条)。「延喜式」神名上の葛上郡17座のうちに「高天彦神社」が見える。なお,坂上系図(続群7下)所引「姓氏録」逸文に「檜前直〈大和国葛上郡〉」と見え,承和14年6月27日山城国宇治郡司解(東南院文書/平遺86)には「大和国葛上郡下島郷戸主賀茂朝臣真継戸口同姓戊継家地」とある。「下島郷」とは「和名抄」に見える下鳥(鳧か)郷のことであろう。承和13年10月11日賀茂成継家地売券(同前/平遺81)にも国郡名は欠落するが同様の記述が見える。当郡内の条里は,京南路西条里で,北から南へ32条から44条が確認でき,里は東の高市郡境から葛城山城に向かって1里から最大9里までが展開する。また,巨勢西条と巨勢東条の特殊条里も確認される。ちなみに,「入唐五家伝記」(続群8上)所引「頭陀親王入唐略記」には,「大和国葛上郡旧国府」と見え,大和国府が当郡内に所在した時期があったことが知られる。「延喜式」神名上に「葛上郡十七座〈大十二座小五座〉」とあり,同民部上には大和国15郡の1つに「葛上」郡が見える。「和名抄」には「葛上郡」として日置・高宮・牟婁・桑原・上鳥(鳧か)・下鳥(鳧か)・大坂・楢原・神戸・余戸の10郷を載せる。東急本は「加豆良岐乃加美」と訓む。長保2年12月15日付東大寺返抄(内閣文庫所蔵文書/平遺4590)に「葛上北郷書生安忠」が見え,平安後期には当郡は葛上北郷・葛上南郷に分割されたとみられる。両郷の正確な境界は不詳であるが,これは当時の大和国衙の国内支配体制改編に伴う措置であり,やがて興福寺が大和一国支配権を確立するにつれて,この郷の行政単位としての意義は消滅した(興福寺本因明四相違裏文書仁安2年8月15日付興福寺公文所下文/平遺3432)。中世には郡域の北部を中心に国民倶志羅・楢原・吐田・玉手らの諸氏が簇生し,興福寺はこれら国民を組織する一方,郡使を派遣して寺門段米・段銭の徴収を行った。ところが,室町期頃から楢原・吐田の両氏が郡内での勢力を伸張させた結果,郡域北部一帯に楢原氏の勢力範囲である楢原郷,郡域西南部には吐田氏の勢力範囲である吐田郷(吐田七ケ所)が形成された。これらの郷はまた高市郡の国民越智氏の越智郷の一部をなしていたし,郡域西部には河内守護畠山氏の勢力も及んだため,葛上郡の行政単位としての実質は戦国末期まではほとんど失われていたといえる。文禄検地では村数30・石高2万959石。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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