窪荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。添上郡のうち。窪城荘ともいう。大乗院門跡領(喜多院二階堂負所)。東大寺三面僧坊領。嘉禄2年12月27日付勧学院政所下文(内閣文庫所蔵大和国古文書/鎌遺3558)に添上郡京南3条5里36坪を「窪庄」と注する。この坪付は現在の奈良市田中町の南部にあたる。当荘は元来喜多院二階堂の所領であったが,鎌倉初期に喜多院院主円綱已講(五条大納言邦綱子息)が大乗院門跡信円に同院院主織を寄進するに至って,大乗院門跡領となった。一方円綱已講は建久年間頃に春日社八講季頭役を勤仕するために当荘田のうち15町を金阿弥陀仏に売却,この時金阿弥陀仏はその所当から菩提山唐本一切経と二階堂に油3斗6升を納入することとなった(井上喜多郎氏所蔵文書仁治2年8月日付譲状/鎌遺5921,古簡雑纂年欠金阿弥陀仏譲状案/鎌遺6281)。ついで建長6年に金阿弥陀仏の跡を継いだ僧聖敒はこれを東大寺三面僧坊に寄進した(建長6年2月日付僧聖敒寄進状/天理図書館所蔵文書・堂本四郎氏所蔵文書)。東大寺領窪荘15町の御米(年貢米)は47石,下司給・定使分・井料・預所得分などを除いた36石が僧坊供料に充てられた(東大寺文書/鎌遺7937・13059)。早くから供米の百姓請けが行われ,文永7年9月19日付窪荘百姓請文(東大寺文書/鎌遺10694)では「窪庄百姓等」として下司代庄司某・僧隆真房ら15名が署名しているが,東大寺からは寺僧が預所に補任されて経営にあたった(同前/鎌遺13060,東大寺文書7応永24年4月日付窪荘預所順弘所務請文/大日古など)。なお菩提山の得分については寛喜2年4月28日付正願院仏事用途所当注進状(鎌遺3983)に寄進御油事として「窪庄一斗六升」とある。大乗院門跡領としての窪荘は貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添上郡の大乗院方荘園として「窪城庄 二十二町八反」と見え,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。「三箇院家抄」巻2では「窪城庄 三十二町大」と記され,田積32町余のうち二階堂負所21町(段別1斗の負所米),二階堂修正料田5段(油1斗),大宅寺荘負所7段(段別3斗の負所米),春日社本談義屋秋季方田1段などに分かれる。負所米・油のほかに大乗院門跡領として,寺門・門跡から恒例・臨時に段銭・段米・用銭・用米を賦課された。享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)に「窪城庄 卅二丁大 二貫九百三十四文上之」,寛正6年の将軍御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)に「窪城 廿二丁八反〈東大寺九丁二反,間田十二丁六反〉」とある。当荘の下司は衆徒窪城氏。鎌倉期に下司庄司として見えるのは窪城氏であろう(東大寺文書/鎌遺10694)。大乗院門跡坊人として檜垣間田(遠田荘)と当荘下司職を恩給された(三箇院家抄1)。また,倉荘・森本も勢力下に置いた。室町期には窪城順専が筒井順永・成身院光宣・古市西胤栄らと姻戚関係を結んで活動した(経覚私要鈔康正3年7月20日条,寺社雑事記文正元年3月4日・文明13年9月29日条など)。応仁・文明の乱以降は古市氏に属したが(寺社雑事記文明11年10月4日条),一方では筒井氏とも誼を通じて一時没落した(同前文明13年9月29日条)。文明17年に南山城で畠山義就方と畠山政長方が対峙した際には義就党の古市氏と政長党の筒井氏の双方に参陣して保身を図っているが(同前文明17年10月14日条),その後は古市方であったとみえ,明応6年には筒井順盛に攻められて自焼し,古市城に入ったという(明応六年記/続群2下)。はやく長禄年間頃から窪城氏は高樋方面への進出を企てて,衆徒高樋氏と抗争(経覚私要鈔長禄2年6月26日条など),永正3年には求目谷・高樋方面に放火して高樋本城を攻めたが,高樋氏の後盾である筒井氏に反攻されて「窪庄本城」は陥落した(多聞院日記永正3年7月12日・17日条)。永禄年間には松永久秀に対して反松永の筒井順慶の与力となったが,同11年に落城(同前永禄11年10月5日・10日条),その後回復して,元亀2年には筒井方の一拠点となっている(同前元亀2年5月9日・11日条)。天正4年石山合戦に動員され,大坂で討死したという(同前天正4年5月3日条)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399327 |





