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五條村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。宇智郡のうち。もとは須恵五條村として1か村であったが,慶長年間~寛文年間に須恵村と五條村に分かれ,さらに寛文年間~元禄年間に五條村から大島村が分村した。はじめ二見五條藩領,元和2年幕府領,同5年郡山藩領,延宝7年からは幕府領。村高は,「慶長郷帳」では「すへ五條」と見え445石余,「寛文郷帳」308石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに381石余。寛政7年五條代官所が設置された。井上内親王に関わる御霊信仰が中世より広がり,当村の恵美須神社はその御旅所。文久3年天誅組が五條代官所を襲い,代官鈴木源内らを斬り,代官所を焼き払い,須恵村の桜井寺を本陣として五條新政府を唱えた。挙兵には五條の勤王の士,乾十郎・井沢宜庵も加わった。しかし,幕命による近隣諸藩の追討にあい,吉野に落ちのび,転戦したが壊滅。儒学者の森田節斎も当村の出身。紀州と大和を結ぶ街道筋に当たり,和歌山藩士の参勤交代の本陣が置かれた。また伊勢への参宮街道でもあり,高野参りにも利用された。寛永16年郡山藩より伝馬所設置を許され,当村は宿場町として栄えた。地内の講御堂寺は宝樹山来迎院と号し,律宗。布教講経の不断道場であったためこの寺名がある。本堂は瓦葺四注造り,安永5年の建立。本尊は阿弥陀如来座像で寄木造り(藤原末期),ほかに木造阿弥陀如来座像・木造観音菩薩立像・木造勢至菩薩立像があり,いずれも県文化財。紀州街道に面した町家粟山家は国重文。慶長12年の棟札をもつ桃山期の建造物で,入母屋造り・本瓦葺き。明治元年10軒の旅籠屋があった。物資輸送には吉野川が利用され,紀州橋本へ上下する船は19艘あった。米なら6~10石を積んだ。船主は五條17・須恵1・新町1の割合であった。五條馬借所の管理下に置かれ,橋本より下流に出ること,橋本からの帰りに荷物を積むことは許されなかった。紀州からの海産物や塩などは橋本まで船で,橋本から陸路で当村へ運ばれた。特産物は漆・焔硝。明治7年知新舎設立,生徒数151,同9年五條小学校となり,同20年五條尋常小学校となる。明治13年郡役所設置。「町村誌集」によれば,明治15年頃の幅員は東西8町余・南北7町余,税地は田24町余・畑6町余・宅地7町余・藪地7反余など合計39町余,戸数572・人口2,184(男1,074・女1,110),人力車2・荷車11,川船20,寺社は宝満寺・称念寺・講御堂,八幡社・蛭子社・八王子社,学校1,村会所1,郵便局1,物産は木綿晒・茶・鮎,民業は農業32戸・商業370戸,ほかは農商工兼業。明治22年五條町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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