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済恩寺(中世)


 鎌倉期から見える地名。添上郡・添下郡のうち。「中臣祐賢記」文永2年9月28日条に「三方神人下向済恩寺畢」とあり,興福寺衆徒の命により春日社神人らが罪人処断のため当地に赴いたという(春日社記録1)。また南北朝期には「大乗院奉行引付」文和2年8月20日条に「済恩寺庄」が見える(成簣堂大乗院文書)。①済恩寺荘。興福寺寺門領。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添上郡の寺門方荘園として「済恩寺庄 四町五段」とある。②済恩寺荘。大乗院門跡(竜花樹院)領。西京散在田畠ともいった。「三箇院家抄」巻2の目録に「済恩寺〈西京之内也,招題寺ノ北ニ在家并田地在之,十七丁六反六十歩,十名也〉」,本文に「済恩寺庄〈添下郡 竜花院御領也〉十八丁余内也」とある。遣唐大使藤原清河宅の後身と伝えられる済恩寺は西京唐招提寺の北方,右京4条2坊5・6坪を占めたが,この寺地と周辺の寺領が荘園化したもので,同寺が藤原氏によって営まれた関係上,大乗院門跡の進止下に入ったのであろう。寺地のほか右京3条3坊4坪,同4条1坊13坪などにも荘田畠があった(三箇院家抄1・2)。この坪付は現在の奈良市尼辻町付近にあたる。荘田の内3反は門跡上北面の給分とされ,また油1斗が門跡に納入された(三箇院家抄1・寺社雑事記永正3年11月19日条)。長享年間には「済恩寺御油」の納入方をめぐって百姓と門跡定使との間で相論,陰陽師を立てて神判を仰いだという(寺社雑事記長享元年12月21日条)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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