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須恵荘(中世)


 平安末期から見える荘園名。宇智郡のうち。須盈荘とも書く。①須恵荘。八条院領。嘉応2年頃とみられる5月4日付藤氏長者宣案(興福寺本信円筆因明四相違裏文書/平遺3548)に「寺僧慶弘申千寛苅取須恵庄麦事」とあり,当荘内の麦を千寛なる者が刈り取ったことを興福寺僧慶弘が氏長者に訴えている。これに対し,興福寺別当信円に千寛を取り調べるよう命令が下された。その後も同様の事件があったとみえ,文治年間にも八条女院の口添えによって氏長者は当荘の夏(麦)物刈り取り停止の命を興福寺に伝えている(年欠5月1日付近衛基通長者宣案/春日大社文書1)。②須恵荘。河内観心寺領。応永16年3月30日付畠山道端寄進状(観心寺文書/大日古)に「大和国宇智郡須恵庄〈除市場并寺社人給安堵〉事」とある。応永年間頃から宇智郡内には河内守護畠山氏の勢力が及び,やがて同氏の分郡となった。これとともに当荘も畠山氏支配下に入り,この年守護道端(満家)から観心寺に祈祷料所として寄進された。現地の沙汰には宇智郡代池田主計入道があたっている(観心寺文書応永16年3月30日付遊佐美作守施行状/大日古)。この後河内守護となった畠山持国もこれを安堵し,守護代遊佐国盛を通じて,郡代野尻七郎右衛門尉に現地の沙汰をせしめている(同前8月24日付遊佐国盛折紙/同前)。次いで永正元年には守護畠山義英,大永3年には畠山義尭によって再寄進された(同前永正元年7月18日付寄進状・大永3年3月18日付寄進状/大日古)。享禄4年守護畠山稙長は当荘の半分を某所に遣わし,残余を観心寺領としている。しかし,その後一円寺領に復し,天文6年には畠山在氏,天文18年には畠山尚誠の寄進状をうけている(同前享禄4年7月17日付奉行連署折紙・7月18日付平英房折紙・天文6年11月13日付寄進状・9月26日付在氏書状・9月26日付平英房書状・天文18年6月4日付寄進状/同前)。荘内には市場が存したほか,栄山寺領田もあった。文明17年4月17日付僧賢澄寄進状(栄山寺文書/五條市史下)では,荘内「田三百歩,字三名 茶薗一所者,徳円垣内之次東」が栄山寺安居料に充てられ,天正6年3月11日付別所宗伝等寄進状(同前)では「須恵庄之内庄〈サカ井ニ在之〉」の田地2段が栄山寺に寄進されている。なお長禄2年成立の「霊安寺御霊大明神略縁起」(群書3上)によれば,「宝亀三年壬子六月三日ニ,宇智ノ郡ヘ流シ奉リテ,須恵ノ庄ト云フ所ニ,土ノ籠ヲホリテ,押籠奉リテ置申シキ」と井上皇后の配流の様子を伝えている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7400239