鳥見(古代~

平安期から見える地名。添下郡のうち。鳥見川(富雄川)に沿い,上流から上鳥見・中鳥見・下鳥見の3地域に分かれていた(長弓寺縁起/大和志料上)。現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域。当地は傍示越え(高山街道)・清滝越え(清滝街道)をひかえる河内・大和交通の要地であり,鎌倉期に春日社神供用途運上に用いられた「上津鳥見路」は清滝街道にあたるという(中臣祐定記嘉禎2年10月9日条/春日社記録1)。①登美荘。山城神護寺領。承平元年11月27日付神護寺実録帳写(神護寺文書/平遺237)に諸国荘々田地并券契目録として「登美庄〈大和国〉」とある。②鳥見荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「鳥見庄田畠三町二段百廿歩 公田也」とある。荘田はすべて公田で,曲田・薑田・庄田・上律谷・木律谷・女谷・畠田内・西庄・島東・島内・中屋内・板井・東前田・西前田・大池尻などの地字に散在した。正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定には「鳥見庄炭五百籠 続松五百把」と見え,興福寺維摩会に用いる炭・続松を上納している(興福寺文書/鎌遺15590)。③上津鳥見荘。単に鳥見荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山報恩院領)。嘉暦元年11月日付季頭料段銭支配状(雑々日記/内閣大乗院文書)に「鳥見庄 定田五十七丁七反小」とある。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には添下郡の大乗院方荘園として「上鳥見庄 六町三反小」が記され,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。「三箇院家抄」巻2によれば「鳥見庄〈上鳥見庄,宝峰院〉五十七町七反小……食堂瑜伽論田地在之,六町三反小 菩提山報恩院方〈宝峰院方〉」と見える。田積57町余はあるいは興福寺寺門領上鳥見荘も合わせたものと思われる(寺社雑事記文明7年10月5日条)。室町期には現田は17町余,うち9町が興福寺瑜伽論田であったという。大乗院門跡の管領する菩提山方田地6町余のうち3町2段余は鹿畑に所在した(同前文明15年12月8日・同16年10月22日条)。菩提山報恩院の年貢は30石,ほか月迫円鏡三面料足150文・人夫伝馬役などを納入した。また恒例・臨時に門跡から段銭なども賦課された。永享元年公方御下向段銭方引付(内閣大乗院文書)に「上鳥見 六丁三反小 三貫卅二文」,享徳2年大乗院御領段銭引付(同前)に「鳥見庄〈下司輪田〉四十四丁三反小 毎度六貫四百八十八文云々」とあり,室町期には6貫500文程度の納入があるのみであった。下司は鳥見和田氏,公文は鵜山氏。このほか職事5人がいたらしい。下司・公文には給田各4段が与えられた。公文鵜山氏は荘内の鹿畑に2町,秋篠付近に6段の所領田を有したが,この所領田をめぐって鵜山の後楯たる和田氏と衆徒秋篠氏が相論,文明6年には秋篠氏が荘内を焼打ちして,地下の薬師堂が焼失したという(寺社雑事記文明3年閏8月14日・同6年閏5月2日・同15年12月8日条)。両氏の相論のため年貢収納は有名無実となるに至ったが(同前文明15年12月10日条),天文14年には秋篠春藤が寺門から「上鳥見二名庄外護職」に任じられて瑜伽論年貢などを納入することとなり,上鳥見の地は秋篠氏の知行するところとなっている(天文14年8月12日付秋篠春藤請状/春日大社文書1)。真弓山長弓寺は当荘内に所在したといい(三箇院家抄2),荘域は現在の生駒市上町から鹿畑町にかけての地域に比定されよう。なお下司鳥見和田氏のほか,大乗院門跡坊人の衆徒鳥見福西氏も活動した。④上鳥見荘。興福寺寺門領。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「上鳥見庄 五町八段 同庄〈松林院方〉五町七段大五十歩 同庄内千本領 六段 同庄〈竹林寺〉三町一段半」とある。⑤中鳥見荘。仁和寺御室門跡領・大乗院門跡(竜花樹院)領。三唐臼・三碓【みつがらす】ともいう。下地は仁和寺御室が知行していたが,鎌倉期に竜花樹院倶舎談義供衆料所として負所米が大乗院門跡に納入されるようになった。現在の奈良市三碓町付近にあたる。⑥中鳥見荘。興福寺寺門領。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「中鳥見庄 十八町」とある。⑦下鳥見荘。西山荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山正願院領)。当荘は菩提山正願院領で,同院主職を兼帯する大乗院門跡が管掌した。⑧下鳥見荘。鳥見荘ともいう。興福寺寺門領(興福寺西金堂領)。文治5年7月日付興福寺西金堂衆申状に「鳥見・矢田庄」とある(太上法皇受戒記/鎌遺400)。当荘は矢田荘とともに小野篁の開発にかかり,篁から寄進されて西金堂の一円所領となったと伝えられる。治承4年平重衡の南都焼打ちに手掻門で防戦した坂四郎房栄覚の処罰のため当荘給主職得分は没官され,内大臣平宗盛に預給されたが,平氏没落後は一時木曽義仲の押領をこうむったものの,後白河院から源頼朝に付与されて在京武士の知行するところとなった。このため,西金堂修二月番頭米などが未納となったという(同前,寺社雑事記文明5年5月2日条)。建長年間には尼御前なる者が「鳥見庄地頭」であった(因明短釈裏文書/鎌遺7707)。下って室町期には応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「下鳥見庄 九十四町四段三百歩」と記す。西金堂は年貢400石のうち番頭米75石を収取する定めであった。当荘は興福寺学侶の管領するところで,給主職については応永年間までは大乗院門跡が知行したが,のちに興福寺東北院に交替して以降は番頭米の納入も有名無実となったという。永享年間に至り,西金堂衆は給主職返付の訴訟を幕府に提起して争い,その結果,給主職は西金堂に安堵されたが,その後も東北院との間で相論が繰り返された(寺社雑事記文明5年5月2日・同9年10月28日・同12月28日・明応2年2月28日・同3月6日条,御前落居奉書永享3年4月10日付室町幕府奉行人連署奉書・同4年11月6日付室町幕府奉行人連署奉書/室町幕府引付史料集成上など)。文明年間には当荘名田は65町といい,名主らの百姓請がなって350石の年貢を請負っている(寺社雑事記文明18年5月4日条)。しかしこの頃から国民越智氏の進出が顕著になり,不知行化が進んだ(同前延徳元年10月12日・明応6年10月25日条)。天正年間の春日進官領納帳(天理図書館所蔵文書)に「鳥見領 合壱石三斗」「下鳥見領 合三石五斗」と記す。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7400991 |





