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藤原(古代)


 大和期から見える地名。①藤原。允恭天皇妃,衣通郎姫の居住地。允恭紀7年12月壬戌条に,天皇は皇后の機嫌を考えて,姫を宮中に近づけず,「別に殿屋を藤原に構てて居らしむ」とあり,大泊瀬天皇(雄略)を産む時に,「天皇,始めて藤原宮に幸す」と見える。允恭天皇皇后忍坂大中姫命の妹,弟姫はその容姿が秀れ比する者なく,その麗しい色は衣を徹して輝いたので,時の人は衣通郎女といった。天皇は使者を遣わしてこれを召したが,弟姫は母に従って近江坂田にあり,皇后の嫉妬を知り参向しなかった。舎人中臣烏賊津使主を遣わしたところ,ようやく大和に至った。しかるに天皇は皇后を憚って藤原の地に宮を建て,そこに居住させたのである。翌8年2月にも天皇は「藤原」に行幸(允恭紀8年2月条),さらに大伴室屋に命じて,弟姫のために「藤原部」を定めている(允恭紀11年3月丙午条)。また「家伝」上巻に内大臣中臣鎌足は「藤原之第」で生まれたと見える。ただし鎌足の出生地については,「万葉集」巻2に天武天皇が藤原夫人(鎌足の娘)に賜った歌として「大原の古りにし里」(103)とあることから,現在の明日香村小原に比定する説もある。②藤原池。推古紀15年是歳冬条に,「倭国に,高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」と見え,同19年5月5日条には「菟田野に薬猟す。鶏鳴時【あかつき】を取りて,藤原池の上【ほとり】に集ふ」とある。③藤原京・藤原宮。持統天皇(鸕野皇女)について「天下を有【しらし】むるに及【いた】りて,飛鳥浄御原宮に居します。後に宮を藤原に移す」(天智紀7年2月戊寅条),元明天皇(阿陪皇女)については「天下を有むるに及りて,藤原宮に居します。後に都を乃楽【なら】に移す」(同前)と見える。すでに天武天皇の時,「新城」へ都する計画があったが(天武紀5年是歳条),これが藤原の地であるかどうかは詳かでない。持統天皇4年正月持統天皇は飛鳥浄御原宮で即位し(持統紀4年正月戊寅条),同年10月太政大臣高市皇子が「藤原宮地」を視察したとあり(持統紀4年10月壬申条),ここに初めて藤原宮の名が見える。同年12月には天皇自ら「藤原」に行幸して宮地を視察している(持統紀4年12月辛酉条)。同5年10月には使者を遣わして京地の鎮祭が行われた(持統紀5年10月甲子条)。そこではこの京を「新益京」と称している。藤原京は浄御原宮北方へ拡大された地域に設定されたので,新たに益【ま】された京と呼ばれたらしい。同年12月王族と右大臣以下の宅地班給が行われ(持統紀5年12月乙巳条),同6年正月には天皇が「新益京」の路を視察している(持統紀6年正月戊寅条)。同年5月難波王らを遣わして「藤原宮地」を鎮祭(持統紀6年5月丁亥条),3日後には伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に新宮造営のことが報告されている(持統紀6年5月庚寅条)。以後宮殿・官衙の建設が本格化する。同7年2月造京司衣縫王らに詔して,掘り出された屍を収容させたとあり(持統紀7年2月己巳条),京の建設も進展していたことが知られる。同8年正月には天皇が「藤原宮」に行幸したとあり(持統紀8年正月乙巳条),これまでの「宮地」という表記から「藤原宮」へと変化しているので,この頃までに宮の外観が整備されたと思われる。そして高市皇子や持統天皇が宮地を視察して以来,4年後の同8年12月に持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷居し(持統紀8年12月乙卯条),和銅3年3月元明天皇が平城京に遷るまで(続紀和銅3年3月辛酉条),16年間の宮都になる。藤原宮は「万葉集」巻1の「藤原宮御井歌」(52)によって香具・畝傍・耳成の大和三山に囲まれ,遠く吉野の山を望む位置にあったことが知られる。これまでの発掘調査によると,藤原京は東は中ツ道,西は下ツ道,北は横大路,南は上ツ道の延長である山田・軽の道をそれぞれ京極とし,その範囲内に中国の都城制にならって左右京12条8坊の条坊制を施して設定され,宮はその中央北寄りに10町四方,ほぼ1km[sup]2[/sup]の地域を限って設けられ,その中央に内裏・朝堂院が置かれた。内裏はなお掘立柱で,檜皮葺であったらしいが,朝堂院はそれまでの宮室とは異なり,礎石を用いた瓦葺の建物であり,その瓦には薬師寺のものとよく似た複弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦が用いられた(明日香村史上)。宮内の建物については,内裏が持統天皇9年に見え(持統紀9年正月丙戌条),大極殿はやや遅れて文武天皇2年(続紀文武天皇2年正月壬戌条),朝堂は大宝元年になってからである(続紀大宝元年正月庚寅条)。その他大安殿(続紀大宝元年正月戊寅条),新宮正殿(続紀大宝2年3月己卯条),東安殿(続紀大宝元年3月丙子条),西高殿(続紀大宝元年6月丁巳条),西閣(続紀大宝2年正月癸未条),西殿(続紀大宝2年12月辛酉条),小安殿(続紀大宝3年10月癸未条),西楼(続紀慶雲元年5月甲午条),東楼(続紀慶雲4年6月庚寅条),内殿(続紀和銅元年11月辛巳条)などの建造物が存した。門では皇城門(続紀和銅3年正月壬子条),海犬養門(続紀大宝2年6月甲子条)のほか,南門(持統紀10年正月辛酉条),重閣門(続紀和銅3年正月丁卯条),宮門(続紀大宝2年7月己巳条)などが見られる。このうち西殿と西高殿とは同一のものか。もし左右対称とするならば,東殿や東高殿も存在したであろう。現橿原【かしはら】市内に高殿町があるのはこの名残か。また西閣と西楼および高殿も同一のものかもしれない。なお海犬養門の名が見えることから,いわゆる宮城十二門があったことを推測させてくれる(続紀慶雲3年是年条・年中行事秘抄所引弘仁式陰陽寮)。京内の施設については,「帝王編年記」文武天皇大宝3年条に,「始立東西市」とあり,「続紀」和銅元年8月庚辰条に,左右京職の史生各6員を加うとあり,同3年正月壬子条には,皇城門の外,朱雀大路の東西において分頭して騎兵を陳列したとする。この後大宝2年3月に文武天皇は「新宮正殿」に御したという記事が見え(続紀大宝2年3月己卯条),また慶雲2年11月には「藤原宮地」を定め,この宮中に入った宅を有する百姓1,505烟に布を賜ったとあることから(続紀慶雲元年11月壬寅条),この時点で宮や京の拡張・改築や移転があったのではないかとする説もある。特に近年京内を走る条坊の延長上から道路遺構が発見され,藤原京は平城京と同規模だったとする「大藤原京説」(東西8里・南北9里)も提起されている。和銅3年3月に平城京へ遷都されて以後は,左大臣石上朝臣麻呂が藤原京の留守官に任命され(続紀和銅3年3月辛酉条),翌年には藤原宮は大官大寺とともに焼亡したと記されている(扶桑略記和銅4年条)。「万葉集」巻1には「藤原宮の役民の作る歌」(50)に「やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲【あらたへ】の 藤原がうへに 食す国を 見し給はむと 都宮【みあらか】は 高知らさむと」,「藤原宮の御井の歌」(52)に「やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始め給ひて」と詠まれる。これらの歌によると,藤原宮の用材は,遠く近江国田上山から伐り出し,宇治川・木津川を下って運ばれたこと,新宮の地は「藤井が原」すなわち藤の咲くほとりに泉が湧く原で,「藤原」の地名はこれにちなむらしいこと,藤原宮の東西宮の東西南北の各門からは大和三山や吉野の山々を望むことができる景勝の地であったことなどが知られる。さらに「藤原の大宮仕へ」(53),「藤原の古りにし郷」(2289)などと詠まれる。その他「藤原京」(79・3324),「藤原宮」(28・105・163・51・78,268・416各左注)が見える。現在の橿原市高殿町・醍醐町付近に比定される。ちなみに「扶桑略記」持統天皇8年12月乙卯条には「天皇遷幸藤原宮。大和国高市郡鷺栖坂地是也」,「釈日本紀」には「氏族略記云。藤原宮在高市郡鷺栖坂北地」と見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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