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森屋(古代~


 平安期から見える地名。城下郡のうち。現在の田原本町の南東部,平田・大安寺・大木・伊与土・笠形・味間の一帯を指称した。①杜屋荘。東大寺領。天暦4年東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書/平遺257)に「城下郡村屋庄田地六町四段」,長徳4年東大寺領諸荘田地注文(東大寺要録6封戸水田章8)に「城下郡杜屋庄田五町九段百歩」,大治3年7月日付東大寺荘園目録(東大寺文書/平遺2119)には「杜屋庄六町」と記す。保延3年の杜屋荘検田帳(東大寺文書/平遺2373)によれば,田積6町7段。荘田は城下郡東郷18条3里7・8坪,十市郡東郷19条3里12・29・30・34・35坪の計7か坪に分布した。このうち2か坪は興福寺雑役免伊保戸荘に押妨されている。荘田の坪付は現在の田原本町笠形・味間のうちにあたる。作人には実円法師・是本・僧勝尊・正行・是友らがいた。このうち実円は近隣の大乗院門跡領出雲荘荏裹【えつつみ】(現桜井市江包)の作人でもあったらしい(石塚書舗待賈文書久安3年8月29日付僧晴誉奉書/平遺2627,西尾氏所蔵文書8月27日付僧良覚奉書/補218)。鎌倉前期には当荘所当100石のうち60石は大安寺恒例節会の料所に宛行われ,その後残り40石も大安寺に寄進された。40石のうち8石は同寺の律学匠の供料,32石は僧坊止住の僧衆の供料に充当された(東大寺所蔵建治元年跋華厳宗香薫抄草五裏文書/鎌遺6768)。鎌倉後期には東大寺領としての実質は失われ,退転したらしい(東大寺文書弘安8年8月日付東大寺注進状案/鎌遺15650)。②森屋荘。大安寺領・大乗院門跡(竜花樹院)領。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に城下郡の大乗院方荘園として「森屋庄 三十八町」。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。「寺社雑事記」文明16年3月朔日条に「当(森屋)庄ハ卅八丁也,反米・反銭等寺門算用此儀也,此内卅六(卅二カ)丁ハ大安寺領也,此内六丁当門跡領也」と,大安寺領と大乗院門跡領に区分された。大安寺領森屋荘は,天平19年の大安寺資財帳(寧遺中)に見える「大倭国五処……一在式下郡村屋」に由来する。平安末期の承安5年には,竜花樹院が「杜屋御庄官等」に対し,大安寺の検田に基づいて同寺に官物(年貢)を納むべきこと,竜花樹院家に臨時雑物を納むべきことを命じている(東大寺文書承安5年6月16日付竜花樹院下文案/平遺3692)。平安末期,大乗院3代院主尋範が実覚から竜花樹院を相承すると,当荘も大乗院門跡の管領するところとなった。「三箇院家抄」巻2には「森屋庄 五町六反半 五石六斗五升加地子米」とある。森屋荘院家名6町とも称された。下司給田3反・沙汰人給田2反。加地子米のほか,公事として段別に瓜・歳末銭・新年七草が賦課された。また京上人夫・伝馬・維摩会威儀供を出すほか,寺門・門跡から臨例臨時の段銭・段米・用銭・用米を賦課された。享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)に「森屋庄〈給主十市 五丁六反半 二貫八百文定〉」,永享元年の公方御下向段銭方引付(同前)には「森屋卅八丁 七貫二百五十九文」とある。「三箇院家抄」巻1によれば,当荘の下司・給主は大乗院門跡坊人の国民十市新賀氏。「三箇院家抄」巻2には「一夜松加賀公〈杜屋庄・小大和庄下司職〉」ともある。また「寺社雑事記」文明16年3月朔日条では当荘院家名は,国民八田氏の給分となっている。③大后寺杜屋。一乗院門跡領。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に,城下郡の一乗院方荘園として「大興寺森屋 四町」とある。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)には「大后寺杜屋〈十七丁一反百八歩〉」,応永34年の一乗院昭円講師段銭納状(天理図書館所蔵文書)にも「城下郡 定使幸徳……大后寺森屋〈重色,十七丁一反百八十歩,二貫七百文納之〉」と,門跡の段銭・段米を賦課された。④森屋。十二大会料所。天文15年8月日付十市郷諸荘進官米注文(京大一乗院文書)に「森屋〈伊与戸□合九反三反切 同壱町〉,同領 大后寺大井門分有野方沙汰」とある。興福寺目代が知行し,その所出は春日若宮祭・興福寺十二大会の用途に充てられた。⑤森屋郷。大田新次郎氏蔵鐘の銘に「大和国城下郡森屋郷新楽寺鋳鐘本願主僧延尊建保三年癸亥四月廿八日」とある(日本古鐘銘集成)。また真輪院(京都府南山城村)所蔵大般若経巻276奥書に「長寛二年三月八日大和国城下郡杜屋□新楽寺書写畢」,滋賀県菅原神社所蔵大般若経巻191にも「大和国森屋郷内平田善興寺経也」と見える(日本古写経現存目録)。仁治3年西大寺中興叡尊は当地で54人に菩薩戒を授けた(金剛仏子叡尊感身学正記仁治3年8月12日条)。弘安3年には興福寺衆徒の命によって春日社神人50人が当地に下向している(中臣祐賢記弘安3年正月26日条/春日社記録3)。また鎌倉末期の延慶年間には,六波羅探題から大和国大強盗として手配された者のなかに,当地住人「七郎広近〈森屋〉見阿ミ仏〈森屋〉」がいた(東寺百合文書と10月5日付六波羅探題連署状案/大日古)。永仁2年3月日付東大寺大仏灯油料田注文(東大寺文書/鎌遺18517)によれば,「一段〈森屋 字加次郎〉本地子六斗五升 作藤次郎」「一段〈森屋 字ハカノツカ〉本地子六斗 作後藤四郎」「一段森屋 本地子八斗 作後藤四郎」と見え,当地には東大寺大仏灯油料田があった。当地は国民森屋氏の本拠地。一族に森屋筒井・森屋大木らがおり,これらを総称して森屋一党といったらしい。森屋氏は大乗院門跡坊人で,門跡から出雲庄御米(年貢米)13石,出雲荘御米20石・同浮免4分の1・檜垣荘年貢半分を恩給された(三箇院家抄1・2)。南北朝期の文和2年大仏殿灯油料所未進押領人交名(東京大学所蔵東大寺文書1/大日古)に森屋四郎男・森屋筒井殿・森屋大木殿が見える。応永21年には将軍足利義持の命で国民森屋筒井氏が他の有力衆徒・国民らとともに上洛した(寺門事条々聞書/内閣大乗院文書)。長禄3年森屋住人が八木において無断で胡麻を売買したため,南大和一帯に胡麻専売権をもつ八木油座衆がこれを大乗院門跡に訴え,門跡は森屋一党に命じて売買を停止させている(寺社雑事記長禄3年8月16日・同23日条)。応仁・文明の乱中,近隣の国民法貴寺一党は多武峰寺に接近して御墓守神人となったが,森屋一党も内々これに追随したという(同前文明12年3月2日条)。森屋筒井氏は筒井氏に対立する越智方に属した。明応2年には越智氏とともに上洛している(同前明応2年5月19日条)。永禄2年松永久秀が大和に入部,一国を制圧した。やがて森屋城は松永方の秋山氏に占拠されたが,永禄11年,国衆十市遠勝がこれを排除して入城した。同10月織田信長から久秀が大和切取りを命ぜられたが森屋城はよく持ちこたえたというが,元亀2年8月再び久秀方の手に落ちた(多聞院日記永禄11年2月20日・10月10日・11月2日・元亀2年8月7日条,二条宴乗記永禄11年2月20日条)。天正3年に織田信長から大和守護に任じられた塙直政は翌年森屋城を接収,十市平城を退去した十市氏の内衆を当城に入れたという(多聞院日記天正4年2月26日・3月21日条)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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