吉野(古代)

大和期から見える地名。①吉野。記紀などによれば,古くは神武・応神・雄略の各天皇が当地へ行幸したと伝承される。まず神武東征伝承によると,天皇は八咫烏に導かれて「吉野」に入り,阿太の養
部(阿陀の鵜養)の祖苞苴擔之子(贄持之子)と,吉野の国巣(吉野の国樔部)らの祖に出会ったとある(古事記序文・神武段,神武即位前紀戊午年8月乙未条・天武紀12年10月己未条,姓氏録大和国神別吉野連・国栖)。ただし「書紀」は神武天皇が菟田の穿邑から自ら軽兵を率いて「吉野」を巡行した時のこととする。また応神朝に「吉野の国主」は「吉野の白檮上」で横臼を作り,その臼を用して醸造した大御酒を献上した時,口鼓を撃ち所作を演じて「白檮の上に横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒 うまらに 聞しもち食せ まろが父」と歌った。この歌は「国主等」が大贄を献上する時,現在に至るまで詠まれる歌であるとされる(古事記応神段)。一方,応神天皇が「吉野宮」へ行幸した際,国樔人が来朝し,醴酒を献上した時の歌とも見え,「今国樔,土毛献る日に,歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ咲【わら】ふは,蓋し上古の遺制なり」とある(応神紀19年10月戊戌条)。さらに国樔を説明して,その人となりは純朴で常に山の菓を食し,蛙を料理し,居住地は京の東南,山を隔てて,「吉野河の上」に位置する。峰険しく谷深く,道も狭いため,京から遠くはないが来朝するのはまれであり,その際には栗や菌・年魚などを土産として献上するという(同前)。雄略朝にも天皇は「吉野宮」へ行幸し,近くの御馬瀬で虜人に命じて猟を行ったが,誰も獲物を鮮【なます】にできなかったので,天皇は怒り御者大津馬飼を斬殺(雄略紀2年10月癸酉・丙子条),河上の小野では,蜻蛉が天皇を刺した虻を捕えたことを喜んで「み吉野の 袁牟漏が獄に 猪鹿伏すと」と詠み,当地を蜻蛉野と名付けた(古事記雄略段,雄略紀4年8月戊申・庚戌条)。また「吉野川の浜」で童女に会い,再び「吉野」へ行幸した時,そこに大御呉床を立て,自身琴を弾き,その童女に舞をさせたところ,好く舞ったので,天皇は歌を詠んだともある(古事記雄略段)。これらの行幸伝承はいずれも信憑性に欠け,後世に潤色された可能性が高い。実際のところ以後しばらくは吉野についての記述は見られないのである。蘇我本宗家の滅亡後,古人大兄皇子は出家して,「吉野」に入ったが(孝徳即位前紀),まもなく謀反の疑いにより「吉野山」にいた古人皇子(吉野太子)に対し,中大兄皇子は兵を派遣して討たせたとある(孝徳紀大化元年9月戊辰・丁丑条)。また斉明朝に興事を好む天皇は,岡本宮・両槻宮・狂心の渠などとともに「吉野宮」を作ったと見える(斉明紀2年是歳条)。離宮の位置については現在の吉野町宮滝に比定する説が有力である。おそらくこれらの記事が吉野についての確実な所見と推定される。その後,天武天皇13年には「吉野人宇閉直弓」が白海石榴を貢上している(天武紀13年3月庚寅条)。斉明天皇5年「吉野に幸して,肆宴【とよのあかり】す」と見えて以後,持統天皇の34回を最高として,天武2回,文武2回,元正1回,聖武3回の行幸記事が見え,天平8年まで続く(天智紀10年10月壬午条,天武即位前紀,天武紀元年6月甲申是日条・同8年5月甲申条,続紀大宝元年2月癸亥・庚午条・同6月庚午条・同7月辛巳条・同2年7月丙子条・同養老7年5月癸酉条・同神亀元年3月庚申条・同天平8年6月乙亥条など)。なお平城京跡の二条大路南側の溝から出土した木簡に天平8年の聖武天皇吉野行幸に関係したものがある。特に大海人皇子(のちの天武天皇)は天智朝の末年に危篤の天皇から後事を託されたがこれを辞退,出家して吉野へ去った。時の人は虎に翼をつけて放ったようなものだと噂し,「み吉野の 吉野の鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ」と童謡に歌った(天智紀10年12月乙丑条)。やがて吉野を脱出した大海人皇子は壬申の乱に勝利し,天武天皇8年再び吉野を訪れた時,吉野宮で6皇子と天皇・皇后との誓約が行われたとある。なお「芳野」への行幸には左右京職(倭国),隼人司,衛門府,左右衛士府,図書寮などの役人が列次に参加することになっていた(令集解宮衛令車駕出入条古記)。「万葉集」にはこれら各天皇の行幸時に詠まれた歌が多く見える。巻3に中納言大伴旅人の歌として「み吉野の 芳野の宮は 山柄し 貴かるらし 川柄し 清けかるらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ 行幸の宮」(315),巻6に神亀2年5月,吉野離宮への行幸時,笠金村の作歌として「万代に貝とも飽かめやみ吉野の激つ河内の大宮所」(921),天平8年6月,山部赤人の作歌に「神代より吉野の宮に在り通ひ高知らせるは山川をよみ」(1006)などと詠まれる(25~27・36~39・70・74・111・112・242~244・316・907~916・920・922~927・1005・1713・1714・3230~3233・4098~4100・4224など)。行幸時以外にも吉野を詠んだ歌は多い(7・113・353・375・385・429・430・960・1103・1120・1130~1134・1736・2161・2837・3065・3291~3294など)。「懐風藻」には太政大臣藤原不比等の「五言。遊吉野」(31・32),神祇伯中臣人足の「五言。遊吉野宮」(45・46),大宰大弐紀男人の「五言。扈従吉野宮」(73),図書頭吉田宜の「五言。従駕吉野宮」(80),中納言丹
真人広成の「七言。吉野之作」(100),鋳銭長官高向諸足の「五言。従駕吉野宮」(102)が見える。「古今集」にも坂上是則の「あさぼらけありあけの月とみるまでによしののさとにふれるしら雪」(332),「新古今集」には「み吉野は山もかすみてしら雪のふりにし里に春はきにけり」(1)などと詠まれる。また現在の大淀町比曽にある比蘇寺は吉野寺とも称し,欽明天皇14年に溝辺直が河内国泉郡の茅渟海から引き上げた樟木で造られた仏像2体は「今の吉野寺に,光を放ちます樟の像なり」と伝承される(欽明紀14年5月戊辰条)。類話には「吉野の比蘇寺」(霊異記上5・伝暦推古3年4月条・扶桑略記推古3年4月条・元亨釈書推古3年条)と見える。天平期には唐からの渡来僧道璿や神叡が同寺に住した(東大寺要録1本願章1天平5年条・僧綱補任巻1裏書天平勝宝4年条・扶桑略記天平2年10月17日同日条・今昔物語11‐5・後紀弘仁2年6月戊辰条)。ほかにも吉野山(金峰【きんぷ】山)や竜門寺などで修行した僧は多い。ちなみに吉野は天女の住む神仙境と考えられ(続後紀嘉祥2年3月庚辰条),空海も少年の日に吉野から高野山へ山水を渉覧したという(帝王編年記弘仁6年条)。宇智郡内にある聖武天皇の皇女井上内親王の墓は「吉野山陵」と見える(紀略大同4年7月丁未条・後紀弘仁元年12月甲申条)。さらに「延喜式」神名上の吉野郡10座のうちには「吉野水分神社」が見える。「万葉集」巻7に「水分山」(1130)が詠まれ,文武天皇2年には「芳野水分峰神」に馬を奉り,雨を祈っている(続紀文武2年4月戊午条)。同社は大同元年,大和に神封1戸が与えられ(新抄格勅符抄),承和7年に無位から従五位下(続後紀承和7年10月己酉条),貞観元年に正五位下が与えられ,風雨祈願のための遣使奉幣もなされている(三代実録貞観元年正月27日条・9月8日条)。祈年祭・月次祭の祝詞に「水分に坐す皇神等の前に曰さく,吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は曰して」と見える大和の4水分社の1つで(延喜式祝詞),祈雨神祭85座の1つでもある(延喜式臨時祭)。当社の旧鎮座地は,「万葉集」巻7に「み吉野の 青根が峰」(1120)と詠まれる現在の吉野町吉野山最南端の峰に比定されている。同じく「延喜式」神名上の吉野郡10座の1つに「丹生川上神社」が見えるが,同社は人の声も聞こえない深山「吉野丹生川上」に宮柱を立て,祈雨・止雨のために社を造ったと伝承される(寛平7年6月26日符所引名神本紀/三代格1)。「延喜式」内膳司には「大和国吉野御厨」が見え,諸国貢進御贄の旬料として鳩・年魚鮨火干・蜷・伊具比魚煮凝などを貢進することになっていた。なお当地を本貫とする氏族としては,吉野連(姓氏録大和国神別・天武紀12年10月己未条),大原真人と同族の吉野真人(姓氏録左京皇別),国栖(姓氏録大和国神別),踰部大炊(同前),文忌寸(坂上系図所引姓氏録逸文/続群7下),榎井忌寸(同前),宇閉直(天武紀13年3月庚寅条)らがいる。②吉野国。「万葉集」巻1の柿本人麻呂の歌に「やすみしし わご大君の 聞し食す天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を,吉野の国の,花散らふ 秋津の野辺に」(36)と詠まれる。また「扶桑略紀」応神19年10月条に天皇は「吉野国」へ行幸したとあるが,「書紀」は「吉野宮」とする。吉野地域は「古今集」巻19に「もろこしの 吉野」(1049)と詠まれるように遠く行きにくい所と観念されており,大和国とは異なる地域とされていた。③吉野郷。「和名抄」吉野郡四郷の1つ。東急本に「与之乃」の訓が見える。郷名は「和名抄」以外に見えない。「大和志」は吉野山村・御吉野村とし,現在の吉野町吉野山・黒滝村御吉野付近に比定される。吉野宮が存在した吉野町宮滝に比定する説もある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7402923 |





