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海部郡


豊臣政権の紀州攻めの後,当郡は羽柴秀長の支配下に入り,代官桑山氏によって岡山に拠点がつくられた。慶長5年入国した浅野氏もこれをうけつぎ,当郡から名草郡にかかる地に和歌山城下が形成されていった。浅野氏は同6年に紀伊国総検地を実施。当郡は同年8月に検地が行われた。この慶長検地の結果を集約した慶長検地高目録で,当郡は村数が46か村,高2万975石余とある。この後,「元禄郷帳」では63か村・2万1,081石余,「天保郷帳」では59か村・2万5,750石余,「旧高旧領」では59か村・2万5,925石余。徳川氏入国後,当郡は海士郡代官が支配したが,寛永17年郡内旧由良荘6か村と旧衣奈村6か村からなる南海部一帯が日高郡代官の管轄となり,代わりに名草郡のうち西名草一帯が組み入れられた。これらの村々を6組に編成。加太荘・木本荘と五ケ郷組・貴志荘の各一部で貴志組,楠見荘と五ケ郷組・貴志荘の各一部で野崎組,雑賀荘・岡町組が雑賀組,五ケ荘・安原荘と下宮郷の一部が吉原組,下宮郷の一部と多田【おおた】荘・大野荘で日方組,浜中荘・仁義荘で加茂組となった。旧荘を基にして組を編制しているが,海部・名草両郡の境界付近では旧荘の村々を分離して組みあわせ新しい組を編制している。享保13年の御領分諸色数並土地之事(一色家文書/県史近世3)によれば,6組合の村数118,高は5万1,228石余,反別は811町3反余。また嘉永6年の当郡人数は6万1,975人うち男3万912・女3万1,063で,6組の内訳は,貴志組8,121人うち男4,167・女3,954,野崎組4,397人うち男2,262・女2,135,雑賀組1万4,256人うち男6,839・女7,417,吉原組7,243人うち男3,625・女3,618,日方組1万4,796人うち男7,323・女7,473,加茂組1万3,162人うち男6,696・女6,466である。江戸期に入ると,加太浦からは日野村・深山【みやま】村・大川浦の各村が,木ノ本村から榎原村・小屋村が,西浜村から今福村,三葛村から布引村が分村したように,海浜部の村々では分村が多く見られた。また湊村・松江村・船尾村・方村などでは砂浜地帯の開発がさかんになされている。和歌川流域は入江が内陸部に深く入っており,城下町への往来はこの方面からなされた。同川下流域の西浜村・関戸村・塩屋浦・小雑賀【こざいか】村・岡町村などは,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗木家文書)に水主役負担村と記されているから,当時は海に面し,生業を海に求める人々がかなりいたと思われる。延宝8年には小雑賀村の漁民が有田川河口へ入漁し,箕島浦の漁民と対立をおこしている(箕島浦北湊浦出入批判書/山本家文書)。また和歌川下流域村々のうち和歌村・三葛村・紀三井寺村・船尾浦・日方浦・方村などの海浜では塩田が開発され,塩が大量に生産された。江戸期橋本の塩市は紀伊国内塩の市として有名であるが,先の和歌川流域の村々で生産された塩が,紀ノ川を川船で運ばれた。この運送には三葛村が特権を有していた。北の加太浦と南の塩津浦・大崎浦・下津浦の加茂谷の漁村からは近世初頭より関東漁場へ多くの鰯網漁民が出漁した。加太浦では,元和年間に大甫七十郎が外房沿岸に出漁して以来連続しており,享保6年4月の加太浦春日神社本殿棟札に,関東浦方役人として加太浦漁民の名がみえる。また享保18年には28張の鰯網が,外房の漁村に入漁料を納めて1張ずつ分散して入漁し,居浦を定めて鰯漁をしている。この28張の網主たちには春日神社の宮座の構成員がかなり含まれている。この年,彼ら加太浦漁民は和歌山藩より5,000両の御用金を命ぜられ,その負担にあえいだ。大崎浦の漁民も正徳6年から享保2年までかなりの漁民が銚子方面へ出漁していることが知られる(大崎区有文書)。塩津浦漁民は寛永10年に瀬戸内の備後真鍋島(現岡山県笠岡市)で鯛網漁場を発見し,それ以来鯛漕網が慶安元年まで連続して出漁した。その後,寛文5年には21名の鯛網出漁民が同島に渡来している(備後真鍋島の史料)。また方村粟島神社へ宝永4年正月に,豊後竹ノ浦,かしの浦(現大分県南海部郡米生津村)の漁民が金幣を奉納しており,江戸期における海部郡の漁民たちの交流が広域におこなわれていたことがうかがえる。18世紀初期の様子を示すと思われる文化5年書写の諸色覚帳写(保田家文書/県史近世3)によると,当郡の家数1万955軒,人数6万6,316人,牛馬数1,730疋,川船336艘,海船1,112艘うち廻船151・漁船644・小船317,網数220張うち持網8・鰯網65・まかせ網30・手繰網38・名吉かます網魚網雑魚網類50とある。また享保13年の御領分諸色数並土地之事(一色家文書/県史近世3)によれば,和歌山城下近在は畑が多く,その地性はよく,田は少なく地性は中分,加太浦近辺ならびに日方辺りより加茂谷までは,田畑土地よく,麦・米両作のみのりよく,殊に山稼ぎ・浦稼ぎ多しとあり,産物には米少し,麦作極めて上々,粟・黍・大豆・小豆・芋・大根のほか蜜柑・楊梅などを栽培,特産に和歌浦蠣・松江蛤・加太わかめ・大川ひじき・黒江椀があげられる。黒江漆器は紀州の伝統工業として広くその名を知られた。黒江村・日方浦・名高浦では,折敷仲間と呼ぶ職人仲間が形成されており,また製品を販売する株仲間もあり,製品も江戸市場へ大量に販売した。このように商工業が発達している土地だけに黒江の人の学問への欲求も高く,石門心学道場である楽善舎が建てられ教化活動も盛んであった。紀伊半島は上方~江戸間の海上交通の経路に当たっており,当郡では加太浦・日方浦・塩津浦などが廻船の寄港地でもあり,避難港でもあった。また加茂谷は有田川沿いの蜜柑栽培地帯のなかに入り,藩の蜜柑方(有田郡北湊村)の支配下にあって江戸市場への積出しも多かったが,京・大坂・兵庫など上方方面の市場も開拓しており,塩津・下津などを積出し港にしていた。慶応4年戊辰戦争に敗れた幕軍が和歌山藩をたより,逃走してきた。廻船を求めてこれら加太・日方・大崎などの諸港へ集まり,住民の世話をうけ帰路についた。めまぐるしく時代がかわり,明治2年藩政改革にもとづき郡制の刷新がはかられ,海部郡民政局を湊紺屋町において従来の郡代官の事務を引きついだ。しかし同年10月に名草民政局に合併された。明治5年の大区小区制実施により当郡は第2大区となり,和歌山城下のうちの湊73町を第1小区に,旧雑賀組に隣接する城下町南西部の83町を第2小区とし,藩政時代の52村と9か浦をほぼ旧組制を基に第3~5小区に編成した。このとき旧吉原組・日方組は当郡からはずし名草郡へ入ったが,3小区には名草郡6か村が入り,4小区でも名草郡8か村を海部郡8村1浦と合わせて編成した。明治6年和歌山県は江戸期に見られた海部・海士の併用を海部に統一した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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