鈴木郷(中世)

戦国期に見える郷名名草【なぐさ】郡のうち永禄5年7月吉日の湯河直春起請文(東京湯河家文書/県史中世2)に十ケ郷のうちとして「鈴木 孫一殿」と見えるのが初見孫一は雑賀【さいか】一揆の組織である雑賀五組の1つ十ケ郷を代表する一揆の指導者で,同時期と推定される年未詳9月29日の藤内大夫等連署起請文(同前)には「十ケ郷 孫一」と見える孫一重秀は土橋氏とともに雑賀一揆の最も有力な指導者で,石山合戦期の本願寺を支えたそのため織田信長は天正5年2月から3月にかけて雑賀を攻めた際,3月1日に「鈴木孫一構取詰,竹たはを以而攻寄,城楼を上,日夜被攻候」ている(信長記/和歌山市史4)やがて雑賀一揆は信長に降伏し,3月15日付の織田信長朱印状(土橋家文書/同前)には,この時降伏した一揆指導者として鈴木孫一,土橋若大夫ら7人の名が見える天正8年,石山合戦の敗北,信長との講和を経て,本願寺顕如・教如が雑賀御坊に下向して以後,一揆内部の対立が鈴木孫一と土橋若大夫の争いを軸に一層深まった天正10年1月23日孫一は土橋若大夫を殺害,その子らを土橋構に攻めてこれを敗走させた(宇野主水日記/石山本願寺日記下)しかし本能寺の変により信長と結んでいた孫一の立場が不利となり,天正10年6月3日夜孫一は城を出て岸和田に逃げ,同4日に反撃に出た土橋氏が「鈴木城」に放火,ついでその一族の「兵太夫城」その他をも攻略した(同前)孫一は後に豊臣秀吉に仕えたという(紀伊国旧家地士覚書/大日料11‐14)「続風土記」では,平井村の「政所ノ坪」という地に鈴木孫一の宅址があるといい,同村の蓮乗寺は孫一が帰依した寺で,孫一道場と呼ばれたと記すこの蓮乗寺には「雑賀住 平井孫市郎藤原義兼 天正十七年五月二日」と刻された墓がある当地は近世の平井村に継承される現在の和歌山市平井に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7405069 |





