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田辺(古代~


 平安期から見える地名。牟婁【むろ】郡のうち。田之陪・田部・田那辺とも書いた。初見は「中右記」天仁2年10月22日条で,「次行田之陪,於王子社又奉幣」とある(大成)。この王子社は現在の田辺市元町出立にあった出立王子と考えられているが,地内には熊野九十九王子社の1つ田辺王子が設けられており,「頼資卿記」承元4年4月27日条に「参御田部王子」と見える。平安末期の田辺には熊野別当の勢力が及んでおり,「吉記」承安4年9月28日条に見える湛増法眼は(大成),田辺の新熊野社別当であり,後に熊野三山別当になっている。平治元年12月に起こった平治の乱の際に平清盛は熊野参詣の途上で乱の勃発を知り帰京しようとしたが,「平治物語」によれば,同年12月10日には田辺にいた湛増が清盛に20騎の兵を進上したことが見える(古典大系)。その後の源平争乱においては,「平家物語」巻11に,元暦2年3月の壇ノ浦合戦に際して湛増が「田なべの新熊野」に祈誓した結果,2,000余人の軍勢を率いて源氏に加担した旨が記されており(同前),「源平盛衰記」巻43には,この時湛増は「田部湊」から壇ノ浦に向かったとある(有朋堂文庫)。湛増は田辺をはじめ,熊野街道(中辺路【なかへち】)沿いに何か所か住坊を有していたと伝える。「明月記」建仁元年10月12日条に,後鳥羽院の熊野参詣に従った藤原定家らが田辺に到着したことが見え,「見田辺御宿……御所美麗,臨河有深淵〈田辺河云々〉」とあるが,田辺河は現在の会津川を指す。「頼資卿記」には承元4年から寛喜元年にかけて頻繁に田辺に立ち寄ったことが見え,また「経俊卿記」にも建長6年から正嘉元年にかけて「田部」に宿泊したことが見える(図書寮叢刊)。南北朝期には当地で何度か合戦が行われており,延元2年3月の小山新左衛門尉実隆軍忠状に「去二月廿九日於田辺惣領法印城墎大手城戸口夜攻」と見える(小山秀太郎旧蔵文書/東大史料影写本)。田辺惣領法印とは田辺の新熊野社別当と思われるが,このころには熊野別当家から分かれて田辺別当家を立てており,南朝方として田辺一帯に勢威を振るっていた。「太平記」巻34には,延文5年4月足利方が紀州を攻撃した際の南朝方の軍勢に田辺別当の名が見え(古典大系),同巻では日高郡の湯河荘司は南朝方に背いて「熊野路ヨリ寄スル共披露シ,船ヲソロヘテ田辺ヨリアガル」という行動をとっている(同前)。南北朝期~室町期には熊野三山の勢力が盛んになり,「満済准后日記」応永25年4月18日条および「看聞御記」同24日条には,同年4月熊野神人が神輿を奉じて田辺に発向したことが見える(続群補遺)。発端は紀伊国守護の畠山満家が熊野社領を侵犯したことにあり,守護方の軍勢は熊野神人・紀伊国人の軍勢に敗れ,幕府の調停により熊野神人の嗷訴はおさまった(看聞御記/同前)。これ以前の応永12年に遊行聖の国阿弥陀仏が熊野に参詣しており,「国阿上人絵伝」に「見那辺峠といふ難所を過て,田那辺と云所まて,二里計平地の道也」と田辺に向かう様子が述べられている(大日料7-7)。「熊野詣日記」によると応永34年9月25日には足利義満側室北野殿(高橋殿)が熊野参詣の途中で田辺に宿泊している(諸寺縁起集/図書寮叢刊)。また文安元年11月2日の旦那注文には,那智実報院先達の「仙慶の左ゑもん次郎盛正」以下21名の田辺の旦那の名前が見える(米良文書/熊野那智1)。享徳3年8月19日の旦那売券には,「田辺ミなと」の九郎兵衛から買った旦那職を坂本平六が那智実報院に売り渡したことが見える(同前)。田辺は古代以来,「牟婁津」「室の江」あるいは「大方浦」などと呼ばれた重要な港であるとともに,平安末期以降熊野参詣途中の宿としても発展した。宿として史料上に見えるのは,「粉河寺縁起」に,粉河【こかわ】寺別当の座を追われた実覚が安元2年に熊野に参詣する途上「田辺の宿」にとどまったことをはじめ(続群28上),「平戸記」延応2年1月28日条には大弐入道資経が熊野参詣の帰路「田部宿」で彗星を見た記事などがある(大成)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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