雨滝村(近世)

江戸期~明治22年の村名。法美郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高197石余,「元禄郷村帳」254石余,「天保郷帳」284石余(うち新田高87石余),「元治郷村帳」280石余,「旧高旧領」296石余。元禄の本免は7.2,「元治郷村帳」の物成は143石余。戸口は,「因幡志」47戸,安政5年大庄屋書出帳46戸・278人,「文久3年組合帳」49戸。「雨滝雑記」によれば,文化・文政年間頃には96戸もあったが,天保7年の大飢饉で36戸に減ったという。比較的水田に恵まれ,法花寺新田・勘十郎新田など新田開発も行われ,天保15年の藩検地では田畑31町余に及んだと伝える(雨滝雑記)。水田耕作のほか広大な林野からの産物,山畑の雑穀生産などを行い,特に木炭(白炭)が良質で鳥取城下などへ早くから出荷したと伝えられる。ほかに産物として「稲葉民談記」は「雨滝ノ蕪【かぶ】他所より味異なる」と記し,「因幡志」は炭・木地挽物を記す。扇ノ山高原の谷あいには木地屋が点在し,数十軒を数えたともいわれる。雨滝の奥の谷には木地屋敷の地名も残る。近世後期には次第に土着し,農業も行うようになったと伝える。入会山について石井谷村・栃本村などとの境界争論がたびたび起きており,享保8年以前や安永2年,安政・万延年間頃にそれぞれ裁許されている(岩美郡史など)。寛政8年藩主池田治道が雨滝を訪れた。嘉永6年大火でほとんど全戸を焼失と伝えられる。万延元年河合谷に土着士が入殖する計画があり,20戸の小屋や開拓道具を準備したが結局は入殖しなかった。文久3年番所が設置され,慶応元年木戸番所に変更されたが,明治2年に廃止(藩史5)。番所跡が残る。「因幡志」によれば,氏神は熊野三社権現と菅野村にある菅野大明神,観音堂は因幡観音霊場20番札所,ほかに地蔵を祀る辻堂がある。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治12年の戸数58・人口309(男161・女148),産物は米・麦・小豆・粟・炭・馬鈴薯(共武政表)。同15年栃本小学校雨滝分校が設置されたが,同20年廃校。同22年大茅村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7407225 |