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釜口村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。因幡【いなば】国八上【やかみ】郡のうち。釜口宿ともいう。鳥取藩領。村高は,拝領高578石余,「元禄郷村帳」705石余,「天保郷帳」714石余(うち新田高135石余),「元治郷村帳」760石余,「旧高旧領」776石余。元禄の本免は5.5,「元治郷村帳」の物成は357石余。戸数は,「因幡志」125,「文久3年組合帳」90。智頭【ちず】街道が通り,宿場が置かれた。寛永14年の領内の宿駅一覧には当宿の名は見えないが,慶安4年の在方御法度の宿駅のなかには当宿の名があり,寛永14年から慶安4年までの間に宿駅に指定されたことがわかる。この当宿設置の意味は,一見して鳥取~用瀬【もちがせ】間の中間駅として設けられたように思えるが,中間駅とするには当宿と用瀬宿とがあまりにも近接しているので,むしろ智頭街道と若桜【わかさ】往来とを結ぶ脇道が釜口―船岡―郡家【こおげ】のルートで発達したことに対応して当地に宿駅が置かれるようになったと考えるのが至当のようである(県史4)。以後幕末まで宿駅として栄えた。制札場も置かれ,安政3年には宿送継場に指定された(藩史5)。智頭郡から出される御用炭の駄賃が享保6年から5厘増しとなり,1俵につき3分となった(県史9)。「因幡志」によれば,町分と在方に分かれ,枝郷には六日市・土居がある。また,上方街道(智頭街道)筋に位置し,隣村へは北の高津原村へ14町余,南の鷹狩村へ30町,さらに南の用瀬村へ50町,東の下船岡村へは志保谷越えで1里,西の佐貫村へは千代川を隔てて13町,鳥取から4里の一里塚がある。氏神は小田大明神,寺は真宗花竜山禄浄寺,ほかに六日市に大田大明神,土居に牛頭天王,修験の玉宝院,高瀬舟があり,さらに辻堂が町分・土居・六日市に1つずつあり,本尊は町分のものが薬師,土居と六日市は地蔵。産物は松・竹。小田大明神は,天鈿女命を祭神とし,天正元年の勧請といわれ,平通詮の霊を祀る。大田大明神は,猿田彦尊を祭神とし,天正元年の勧請といわれ,平頼亥の霊を祀る。両社とも明治元年稲荷大明神を合祀し,同5年足曳神社の摂社となった。牛頭天王は延久2年の勧請といわれ,元慶元年勧請の八幡宮と合祀して足曳神社となった(県神社誌)。禄浄寺の本尊は阿弥陀如来,開基は導教で寛永年間の創立とされ,本堂は文政年間に建造されて,宝暦9年銘の梵鐘がある。延享4年高瀬舟運上表に「弐石 八上郡釜口村」とあり,当地は川筋の物資の集散地にあたり,高瀬屋・舟大工屋などの屋号が残る。また「大川筋御絵図面」によると,八日市渡しがあり,付近の川幅28間・右岸河原23間・左岸河原16間。安永9年,高津原村との間で山論が起こった(県史9)。修験の杉本宥宜が寺子屋を開き,明治4年の寺子数男20(藩史3)。大庄屋に就任した者には寛永10年に甚左衛門,元禄3年に安東伝右衛門の名が見え,宗旨庄屋には天保元年安藤与兵衛の名が見える。医者に太田俊庵(文政2年没),要伯(弘化元年没),東寿(明治28年没),勇昌らがいた。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治6年釜口小学校が開設,同7年の教員数1,男子生徒数21,授業料月42銭(県史近代5)。同9年佐貫小学校の支校となり,同12年佐貫小学校より分離し,学区を和奈見・八日市・釜口の諸村として和奈見村に支校を置いた。同15年には山手小学校釜口分校となり,学区を釜口・高福両村とし,同16年佐貫小学校に属す。同18年には釜口尋常小学校と改称し,同22年には字奥背戸に移転。明治12年の戸数106・人口457(男257・女200),牛51,船1(共武政表)。同15年の戸数111(八頭郡誌)。同22年国英【くにふさ】村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7407922