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倉吉町(近世)


 江戸期の陣屋町名。久米郡のうち。倉吉村・倉吉宿ともいう。鳥取藩の着座のひとり倉吉荒尾氏の陣屋町。村高は,拝領高330石余,「元禄郷村帳」363石余,「元文2年村分帳」320石余,「天保郷帳」330石余,「元治郷村帳」295石余,「旧高旧領」367石余,元禄の本免は5.7,「元治郷村帳」の物成は155石余。戸口は,寛延2年侍屋敷79戸・町屋敷903戸,2,928人,宝暦年間の町屋敷924戸,文化7年3,699人,弘化3年4,424人(藩史5)。関ケ原の戦以前は南条領,戦後は伯耆一国が中村領となり,慶長9年一族の伊豆守が当地を支配。同14年幕府領となり,代官は山田五郎兵衛直時。元和3年池田光政が因伯両国を領することになり,当地は重臣の伊木長門守忠貞が治める。寛永9年国替えにより池田光仲が鳥取に入部すると,家老の荒尾志摩守嵩就が自分手政治を行い,以後明治維新に至るまで,倉吉荒尾氏の支配地となった。元和元年の一国一城令で打吹城が破壊され,以後近世を通じて陣屋町・宿場町となったが,享保7年在方追放者は住居・往来を鳥取・米子とならんで禁止されているように,重要拠点としての地位を占めていた(県史9)。町は打吹山を背後に,小鴨川を前面にする狭隘な地であるところから,東西の長い地に沿って町割りがなされている。打吹山の山麓に置かれた陣屋を中央にして,その前面北側の地に倉吉組士の武家屋敷を設け,(現在の東町・葵町・仲ノ町・瀬崎町),また大岳院裏(現在の荒神町)に足軽長屋を置いた。武家町の前方,小鴨川寄りにはほぼ二条の東西に伸びる町並みが形成されたが,これは町人地で,そのうち最も武家町に近い町家は東の方から魚町・東仲町・西仲町・西町で,その外側を玉川が流れており,この4町は内町として築かれたものであろう。玉川は外濠的性格をもつ川で,その北に新町通り(研屋町,新町1~3丁目)の町が東西に並び,これらの町は外町で,寺院と職人とによって構成された町並みである。さらに新町通りの西側には,商人町の岩倉町,職人町の越中町・鍛冶町・小屋町・広瀬町と続き,最も西側に河原町がある。当地への入口のうち最も重要なものは,鳥取方面との往来である倉吉往来であって,河村郡上井から竹田川下流の渡しを経て小鴨川沿いに進み,下横町(現在の堺町2・3丁目)の枡形の番所前から魚町へと入る。横町筋は南北に通るT字形の縦線で,城下町特有の町づくりである。また,陣屋前と家士町西とに南北に幅30間前後の広小路が設けられたが,火災の際の延焼を防ぐ目的でつくられたものであろう。町政は荒尾氏家臣の中から任じられた町奉行のもとに,町年寄が町政全般の実務に当たり,各町には町目代が置かれて町年寄を補佐した。町政を執行する役所である町会所は,東仲町と西仲町の境界付近にあったものと思われ,「会所小路」の呼称が残っている。神社には賀茂皇太神宮・布留舎荒神があり,寺院は天台宗2・真言宗1・浄土宗3・真宗2・曹洞宗5・日蓮宗3の計16か寺があった。災害のうち,洪水は延宝元年・元禄8年・同14年・同15年・享保6年・同9年・宝暦12年・文政12年のものが大きく,火災では元禄8年・寛延3年・宝暦3年に大火が起こる。稲扱千歯が名産で,元禄年間に始まったと伝えられ,その製造は鍛冶町・小屋町を中心に周辺の町にまで広がり,江戸期には「伯耆千歯」「倉吉千歯」の名を広めた。万延元年には,稲扱き運上締役八田伝右衛門が,千歯の原材料となる鉄が他国に流出し生産に支障をきたすため,他国出しを禁じ当地へ集荷するよう御国産御役所へ願い出ている(県史13)。木綿の集荷は18世紀末から盛んとなり,久原・山口両番所を通じて大坂へ向けて通過することが多くなった。嘉永7年には,船木甚兵衛が,久原・山口両番所での木綿送り出し手形を発行できる木綿方融通所になった(県史13)。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治2年の版籍奉還前,鳥取藩の藩治組織の改正に伴い,荒尾氏の自分手政治を廃して,研屋町に市政所を置き町政を執行。また,これとは別に越中町に置かれた郡政所は久米・河村・八橋【やばせ】3郡の政務を司る。同5年大区小区制実施により,区長・副区長が任命されたが,ともに鳥取藩士族であった。三新法施行をもって同12年当地を二分し,湊町ほか13か町1村の戸長役場を新町1丁目に,新町3丁目ほか10か町の戸長役場を西岩倉町に置く。同16年戸長役場を統合し,久米郡第1連合戸長役場とし,役場を西町に置いた。明治11年には,神坂村と余戸谷村を合併。当町は葵町・仲ノ町・魚町・東仲町・西仲町・西町・堺町(1~2丁目)・研屋町・新町(1~3丁目)・瀬崎町・東岩倉町・西岩倉町・福吉町・越中町・鍛冶町(1~2丁目)・広瀬町・河原町・余戸谷町・湊町・東町・荒神町で構成された。学校は明治6年創立の開蒙学校が陣屋の一部に設立され,同7年越中町に一貫小学,神坂村に温恭校を創立,同11年開蒙・温恭を合併して成徳小学校とし,さらに同20年には一貫小学を合わせ,倉吉尋常小学校と改称。明治7年開蒙小学校は教員4,生徒127(男100・女27),授業料月3円29銭3厘,一貫小学は教員4,生徒70(男59・女11),授業料月1円32銭3厘(県史近代5)。私塾には山瀬幸人らの創設になる山陰義塾が西仲町に,また亀井甚三郎の倉吉私立学校が仲ノ町に開かれた。通信・交通機関としては,郵便取扱所と電信局が西町で開所し,人力車が導入されたのは明治9年頃,同19年には因伯馬車会社ができ鳥取~倉吉間を走る。明治12年の戸数1,455・人口6,049(男3,099・女2,950),牛7・駄馬18,水車1,荷車10・人力車10・日本形船8,物産は干うどん(共武政表)。同22年市制町村制施行により倉吉町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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