河内(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ明治村,昭和28年からは鳥取市の大字。明治24年の戸数109・人口588,水車2(徴発物件一覧)。山林・原野が広く,周囲5里18町といわれる(鳥取市七十年)。明治村内第一の広い面積をもち,大正期まで戸数100軒,田畑70町歩(河内60町歩・安蔵10町歩)といわれてきた。生産では米麦のほか,江戸期から和紙製造が盛んで,原料の楮・三椏も産し,製炭・林業・畜産も行われ,役肉牛はかつて「河内牛」として知られた。医者・宿屋・鍛冶屋・石屋・下駄屋もあり,市街地より遠隔の地にあるため,自給自足の体制が強かった。明治30年代安蔵までの里道が改修され,同43年河内信用組合が設立された。鳥取~河内間の県道は昭和の初年に着工され,同31年になって完成した。特に河内集落の道路400mは幅員5.5mとなり,交通上きわめて大きな役割を果たすに至った(鳥取市七十年)。明治初年,安蔵は25戸あったといわれ,その後減少しているが,昭和初期の恐慌による離村が目立つ。災害では明治25年40戸を焼く大火があり,昭和26年には27戸を全焼した(同前)。大正元年の洪水の際には,家屋の流出は河内11戸・安蔵3戸であった。大正7年の水害は死者3名・流失家屋13戸。たび重なる水災を防ぐため,昭和8年復旧工事に着手,同20年完成した。河内尋常小学校は明治25年の大火に類焼し,正福寺を仮教場としたが,同年8月廃止。大正12年9月河内分教場ができ,昭和22年河内分校となった。電灯は河内は大正12年,安蔵は昭和21年に点灯。昭和30年代に入り,製紙・製炭は不振となり,戸数もやや減少。昭和24年に河内まで,同40年には安蔵まで定期バスが運行した。昭和39年3月,河内分校は廃止となった。昭和34年の水害では流出家屋1戸の記録がある。鳥取市内では冬季の積雪が最も多く,安蔵には季節分校が昭和50年まで設けられていた。世帯数・人口は昭和30年89・512(河内73・413,安蔵16・99),同40年84・436(河内68・354,安蔵16・82),同50年75・335(河内65・284,安蔵10・51)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7408296 |





