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下船岡村(近世)


江戸期~明治10年の村名因幡【いなば】国八上【やかみ】郡のうち大江川と八東【はつとう】川の合流点の,洪積層の火山灰土に覆われる河岸段丘面から沖積地にかけて位置する中心地域は大江川左岸地名の由来は,上船岡に対して八東川上流に位置することによる鳥取藩領村高は,拝領高1,058石余,「元禄郷村帳」1,323石余,「天保郷帳」1,368石余(うち新田高310石余),「元治郷村帳」1,423石余,「旧高旧領」1,440石余元禄の本免は5.9,「元治郷村帳」の物成は748石余戸数は,「因幡志」120,「文久3年組合帳」159近郷では大村であった「因幡志」によれば,南の破岩【われいわ】村へ10町,北の久能寺村へ10町,上船岡村とは大江川を挾む西方には八上郡六日市村へ通じる巡見道の志保谷【しぼたに】坂があり,巡見使の宿泊所もあったまた,池田光政の家臣丹羽兵庫が元和3年に構えた丸山城址がある(因幡志)氏神は厳島大明神・八幡宮・岡大明神の3社岡大明神ははじめ笄【こうがい】の宮といい,天正9年に焼失したものを寛永4年池田光政の家臣丹羽兵庫が岡大明神として造営した明治元年に下船岡神社と改称ほかに福寿院,因幡観音霊場7番札所の観音堂がある産物は胡麻・菜種・炭・薪・挽板・竹木など寺は浄土真宗臥雲山賢光寺・黄檗宗乾徳山西来寺がある賢光寺は,はじめ賢光院と称し弘治元年に釈良波法師により建立され,慶長年間に焼失元和8年に再建,寛永2年光賢寺と改称,天和年間に再び焼失し,親鸞聖人450回遠忌をひかえた宝永6年に再建された明和9年3月には同寺の鐘を上船岡村の天満山で鋳直す許可が出ている(県史9)西来寺は藩主池田氏の家老乾氏の開基というほかに,山伏堂宝院があり,御免地で境内は東西20間・南北8間(藩史4)また,渡瀬船の船着場があって,谷奥から竹木等を鳥取城下へ積み出したその際の運上は1艘に付1石2斗(大・小船を合わせて1艘とする)年に2度(7月5日・12月24日)市が立ち,近郷近在から人々が集まり,因幡国の市の始めと伝えられる享保5年には因幡国2か所の牛市場のうちの1つが設けられ,寛永年間に御制札場,宝暦8年に目安箱が置かれ,寛保元年に鉄砲杭が建てられたほか,宿駅も設置された当宿は,万治2年の在方御法度には船岡宿,正徳・享保期の在方御定には下船岡宿と見え,若桜【わかさ】街道から分岐し釜口宿に至る脇往還の宿駅であった当村は,寛永9年の池田光仲入国以来,その家老乾兵部が本陣を置き陣屋支配を行った地であり,次第にその政治・経済・交通上の重要性が増大し,慶安4年八上郡の河下(郡家【こおげ】)村にかわって宿が設置されたと考えられる当村には乾氏の菩提寺と屋敷があったという寛永10年に当村の助太夫が大庄屋となって以来,角屋橋本・美田屋橋本・上虎屋石井など多くの大庄屋が出ている安永6年4月に降雹の被害を受け,春作が半毛あるいは無毛になる地もあり,八上郡渡一木村・山手村・徳吉村・今在家村・当村の5か村に対し拝借米50石が支給された(県史9)また,慶応4年に長崎浦上村の切支丹150人を藩が預かった際,うち35人を当村牢屋に入れた(県史13)明治6年船岡小学校を設置,同7年の教員数4,生徒数男41・女7(県史近代5)明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年上船岡村と合併して船岡村となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7408635