多里村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日野郡のうち。多里宿ともいい,元禄14年村を宿と改称したという(藩史5)。鳥取藩領。村高は,拝領高172石余,「元禄郷村帳」172石余,「天保郷帳」217石余(うち新田高45石余),「元治郷村帳」231石余,「旧高旧領」236石余。元禄の本免は6.0,「元治郷村帳」の物成は92石余。戸口は,「伯耆志」87戸・404人,「文久3年組合帳」92戸。日野街道の宿場町で,万治2年の宿駅名以降に当宿の名が見えるが,慶安4年の宿駅には見えず,慶安年間から万治年間のあいだに宿駅として指定されたのであろう(県史4)。日野街道の宿駅は最初は黒坂宿が最も奥に置かれていたが,さらに奥の当地に新駅が増設されたのは,当地が鍵掛【かつかけ】峠を越えて備後・備中へ至る道と竜駒峠【りゆうのこまだわ】を経て出雲横田へ至る道の分岐点という交通上の要地にあり,また鉄の産出という経済上の理由によるものと考えられる。隣駅へは,霞宿へ3里,日谷村へ2里半,出雲国横田村へ4里,備後国三坂野へ2里,備中国高瀬へ3里(伯耆志)。当宿には当初問屋がなかったが,享保14年八郎右衛門が問屋を引き受けた。なお,その際,多里宿・新屋【にいや】村・中園村・野組村の4か村の馬持仲間が問屋設置を承認しており,当宿の馬稼ぎ村であったことがわかる(県史9)。国境近くに位置するため,江戸初期には番所が建設され,慶応元年に再建されたほか,享保4年抜荷改所に指定された(藩史5)。また制札場でもあった。在郷町としても栄え,7月12日と12月24日に開かれる定期市のほか4月と8月の年2回牛市が立った。牛市の開催については享保9年4月に藩に出願して許可されている(県史9)。「伯耆志」によれば,産物は石灰,林は69町余を有し,隣村へは東の湯谷村へ5町,南の新屋村へ7町,西の上萩山村へ20町,北の萩原村へ5町。また,寺院に曹洞宗中宝山常福寺,浄土宗薫習山浄香寺,真宗竜雲山西方寺があり,産土神は新屋村にある稲倉大明神,ほかに地内に稚児宮と小祠23・辻堂3がある。常福寺は備後国奴可郡徳雲寺5世寛海といわれ,開山年代は不明だが寛海は永禄12年に没している。浄香寺は心誉の開山といわれ,京都知恩院末寺。西方寺は善瑞(寛永3年没という)の開山で出雲国善徳寺の末寺,正保10年から明治5年まで寺子屋が開設され,明治5年には医師秋津牧斉を教師として男子生徒20人・女子生徒4人がいた(藩史3)。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治6年多里小学校を開校,同7年の生徒数90(男78・女12),教員数2(県史近代5)。同22年多里村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7408929 |