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西福原村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち。鳥取藩領。もとは下福原村の一部で,幕末に当村と東福原村とに分村。ただし,分村の時期については,「伯耆志」が「百年前」と記して宝暦年間頃のこととするのに対し,「藩史」5は明治2年領内限りで分村したとする。しかし,「伯耆志」「元治郷村帳」では東西両村に分けて記載しているので,領内ではすでに幕末期には分村したものとみなされていたと考えられる。村高は「元治郷村帳」548石余,「旧高旧領」564石余。元禄の本免は4.0,「元治郷村帳」の物成は158石余。戸口は,「伯耆志」78戸・454人,「文久3年組合帳」106戸。「伯耆志」によれば,隣村へは東の東福原村へ3町,南の米子へ8町,西の上三柳村へ2町,北は海岸まで7町,産土神は米子にある勝田大明神,地内には小祠2,辻堂1がある。文政2年2月当村と米原村・観音寺村の者36人が伊勢参宮に出立している(県史10)。嘉永3年・文久2年・慶応3年には米子詰めの武士が当村と海池【かいけ】(皆生)村の間30町ばかりの場所で大砲の稽古を行っている(県史13)。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。学校は明治6年当時は車尾【くずも】校に通い,同8年東福原村の民家を仮校舎としたが,同15年三柳小学校に付属。向地上場谷・山地上谷・山地下谷の3集落に分かれ,明治12年の戸数101・人口478(男243・女235),牛52,船8,物産は米・麦・鰯(共武政表)。同22年福米村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7409345