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矢矯(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ吉岡村,昭和28年からは鳥取市の大字。明治24年の戸数43・人口226(徴発物件一覧)。同26年の村勢は次の通りである。物産はハゼの実300貫・薪1万5,000貫,民業は農業38戸・大工3戸・桶屋2戸・木挽1戸・商業3戸・紙漉1戸,戸数49(民家48・社1),人口207(男109・女98),地租は米47石4斗2升・金211円2銭7厘,田18町4反8畝30歩・畑1町2反5畝15歩・宅地1町5反3畝70歩・山林56町2反5畝17歩・原野55町3反5畝70歩,藪地1か所6畝5歩。牛12(牡2・牝10)。三渓滝があり高さ2丈5尺・幅1間,三谷山より流れ出ている(吉岡郷土史)。そのほか庵寺が吉岡の宝泉寺の出寺としてあったが,大正元年の水害で流失した(湖南誌)。同年9月の洪水で1戸流失,3名溺死の被害をうけた(千代川史)。大正2年旧村社矢矯神社に瀬田蔵の瀬田蔵神社,妙徳寺の松上神社,地内狼谷の香取神社,双六原の桑田神社の4社を合祀した。矢矯神社は大正9年神饌幣帛料神社に指定された(県神社誌)。「湖南誌」によると大正2年洞谷神社も合祀されている。大正12年矢矯尋常小学校は吉岡尋常小学校に合併され,その分教場となり,昭和2年廃止される。大正期ワサビの栽培を始め県の補助を受けたが,水害のため苗が流されて以後栽培を中止した。昭和25年頃からシイタケの栽培が始まり,椎茸組合を結成し,乾燥・共同出荷してきたが,同48年ごろからは,5~6戸の農家が個人で出荷するようになった(湖南誌)。矢矯神社社叢は昭和31年県の天然記念物に指定され,境内にはタブノキ・シイノキ・ツバキなどが多い。世帯数・人口は,昭和6年32・165,同24年34・187,同30年34・194,同40年32・173,同50年29・120。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7410173