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八橋(中世)


 戦国期に見える地名。八橋郡のうち。永禄7年と推定される年未詳9月3日毛利元就書状(萩閥2)に「八橋城衆」と城名をもって見えるのが初見。八橋にはすでに南北朝期頃には城が築かれていたようで,戦国期以前は尾高泉山城に拠る行松氏の一族が八橋城をも支配していたといわれる(県史2)。八橋は西伯耆から東伯耆および因幡【いなば】の動静をも知ることのできる要衝の地に位置し,また東の逢坂と西の赤崎は伯耆中部の港として栄え,軍事的にみてとりわけ重要な位置を占めたことが推定される。このため,戦国期にはその争奪をめぐってたびたび激しい戦闘が繰り返された。天文13年2月,尼子晴久は主軍を率いて八橋に入り,ここを拠点として伯耆一円を制圧したが,永禄8年には毛利元就軍がこれを落として伯耆の尼子党を制圧し,元亀元年頃尼子党によって一時占領されるも,同2年8月には吉川元春が大軍を率いてこれを奪還し,以後吉川氏は八橋に諸隊を集結して東伯耆と因幡【いなば】に進出していったといわれる。鳥取城での毛利・豊臣両軍の激戦ののち,天正13年春に至って両者間の講和が成立したが,その結果伯耆の西3郡と八橋城が毛利氏領となり,八橋は毛利氏にとって山陰方面の最東端にある戦線基地として,その軍事的な重要性をさらにますこととなった。なお,八橋には中世開創の当山派山伏寺として県下に唯1つ現存する大日寺があり,現在は改宗して真言宗に属している(県史2)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7410175