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米子町(近世)


 江戸期の城下町名。会見郡のうち。鳥取藩の四着座のひとり荒尾氏の城下町。村高は,拝領高1,362石余,「元禄郷村帳」1,626石余,「天保郷帳」1,029石余(うち新田高181石余),「元治郷村帳」969石余,「旧高旧領」1,073石余。元禄の本免は6.0,「元治郷村帳」の物成は581石余。寛永9年頃士族屋敷数150,町屋敷数930,神官・僧侶屋敷数20と見積り,総戸数約1,100,人口約5,500と推定される(米子市史)。元禄8年の総戸数2,225(侍屋敷神官僧侶を含む)。寛延2年幕府御目付来国時の答申では侍屋敷数85(うち明屋敷19),町屋敷数1,238,人数5,677(男2,896・女2,781)。文化7年両国人別改では人数7,540,弘化3年の人数7,675(藩史5)。「伯耆志」では家数3,000・人数8,345。明治2年自分手政治廃止の時,町人竈数2,327(うち明屋156・空地8),人高総計8,466,戸数2,577(米子市史)。慶長5年中村一忠(忠一とも書く)が,伯耆17万5,000石の城主として駿府より入国。家老の横田内膳と計って米子城を完成したが,一忠は20歳で病没して断絶。その後米子城は加藤貞泰(6万石)を経て,元和3年姫路城主池田光政(31万石)が因伯両国を掌握するや,その一族の由之(3万石)の管掌するところとなった。寛永9年光政が岡山の光仲と国替えとなり,それから後は明治維新まで家老の荒尾氏(1万5,000石)が米子の町政を委任され,いわゆる自分手政治が行われた。町割は中村氏在城の頃より本格化し,藩政初期に完成された。米子城の天守は標高90mの湊山にあり,北側と東側は内濠と外濠を170間隔ててL字型にめぐらしている。郭内は侍屋敷で,外濠の内にあり,郭外には伯耆の各城下から呼びよせた人々や,同業者たちの町が外濠沿いに並んだ。これらの町はいわゆる米子十八町と呼ばれ,博労町・糀町(新町)・道笑(道正)町・日野町・茶町・塩町・大工町の山陰道に沿う町と,これと直交して法勝寺町・紺屋町・四日市町・東倉吉町・西倉吉町・尾高町・岩倉町・立町・灘町が続き,外濠の内側に内町・片原(天神)町があった。町会所は四日市町,制札場は糀町と内町に,御銀札場は立町,囚獄は糀町,里標は鳥取よりの入口である博労町にあった。城の鬼門にあたり,米子城下の東の入口防衛のため,勝田神社が勝田山に勧請され,慶長年間末に博労町に移転。池田光仲が社領7石5斗を寄進している。西の出雲へ通じる愛宕山山麓には総泉寺(寺領100石),感応寺(寺領300石)が砦の役割を果たした。町人地と侍屋敷を隔てる外濠には,川口側から深浦にかけて京橋・中ノ棚橋・天神橋・藪根橋・横町橋・福厳院橋・塩町橋・円応院橋の8橋が架かっていた。幕末には世情不安のため,ここに木戸番を置き治安を図った。町人地には営業権としての特権(町禄)が与えられ,運上銀を課した。これらは法勝寺町(唐津物・古物商),紺屋町(野道具・傘),四日市町(鍛冶屋),東倉吉町(反物・呉服・小間物・宿屋・置屋),西倉吉町・尾高町(呉服・太物・小間物・畳表・ゴザなど),岩倉町(昆布・乾物),立町(傘・綿),灘町(海産物・舟問屋・魚屋・綿問屋など),日野町(傘油・糸車・柄杓・弁当箱),茶町(大工・左官・日傭),塩町(舟稼・蔵仲仕),大工町(日傭),糀町(酒・糀),博労町(牛馬市・馬喰)などである。これらの営業をめぐり,町禄争いも多かった。西倉吉町・尾高町の両町は,いずれも畳表・ゴザ類一切を町禄として売りさばいていたが,嘉永5年に至り,尾高町が背負ゴザ表を独占販売とし,その利益を分配しなかったため,西倉吉町から抗議書を発し,利権問題について両町間に葛藤があった(米子市史)。町政は町年寄・町代の下に各町毎に目代が行った。東倉吉町・西倉吉町は古くからの宿屋町で,その町裏は娯楽機関として芝居小屋が許可されていたが,他所へこれを許されることを恐れ,嘉永6年両町の目代へ占有方を願い出ている(米子市史)。家屋については,各戸の間口に小間毎(3尺)に1年1朱の税を課して町費にあてた。これを小間割銀(軒間銀)という。また家屋の売却の際には「十分之一銀」と称し,1割を町に納入した。外濠から内は侍の居住区で,町人地が町【まち】とよばれたのに対して町【ちよう】と呼び区別した。本藩組士および荒尾氏の家臣合わせて150余名が郭内の東町・堀端中ノ町・西町,また西町から内町に至る間に,また池田家から荒尾へ付属する鉄砲足軽50人が外濠沿いの五十人町へ居住した(米子みやげ)。郭内の町に内町・馬場町・五十人鉄砲町・中之町・三社町・片町(享保5年の湊山金城米子新府),内町・西町・堀端町・五十人町・東町・中ノ町(伯州米子之図)などがあった。当町には近世初頭から宿駅が置かれ,鳥取城下と結び伯耆街道の交通上の要地として重視され,また日野郡や弓浜半島,出雲国への分岐点でもあった。すでに寛永14年の領内宿駅の一覧に当宿の名が見え,同史料によると,隣宿への里程・駄賃は溝口宿へ3里20町・1匁8分,淀江宿へ2里8町・1匁1分,出雲国矢杉村へ2里・1匁,宿賃は主人・馬12文,下人6文(藩史5)。また,松江への渡船もあった。「伯耆志」によると,産物に鰡・車鰕・赤貝・白魚・山芋(湊山),干瓢・水晶石(勝田山),四方石(深浦),製造品として藍・智明丸・神霊丹・赤玉・瓦・操車・カスリとある。明治2年荒尾氏の自分手政治が廃止される。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治5年区制がしかれ,米子は第82~84区までとされ,その区分は第82区に東町・堀端町・郭内・西町・宮ノ町・中町・五十人町・内町・天神町,第83区に博労町・糀町・道笑町・日野町・茶町・塩町・大工町・新博労町,第84区に法勝寺町・紺屋町・四日市町・東倉吉町・西倉吉町・尾高町・岩倉町・立町・灘町(灘町新田を含む)・寺町・新法勝寺町が所属した。合計28町で各区には戸長を置いた。同6年大区小区に改められ,人口の多かった糀町・天神町・立町・灘町が1~2丁目に分割されて32町となった。同10年勝田村を合併,勝田町となり,合計33町を編成。同12年会見郡郡役所を西町に設置。同16年連合戸長役場を設け,戸長が置かれた。米子は2連合となり,上町区は東町を中心に21か町,下町区は立町を中心に12か町が連合し,各戸長役場を有した。戸数・人口は明治15年2,582・1万1,513,同20年2,572・1万2,249。明治10年代に相次いで魚商・融通・魚鳥・麻布の会社が設置され,米子の近代商工業の黎明期となった。同19年には県立製糸伝習場米子分場が設置された。商業では古物商・旅籠屋・料理屋・諸飲食店が盛んでその数は県下で最も多かった。明治5年米子港が修築。同17年には大阪商船が安来―米子―境―大阪間の定期航路を開設。同19年倉吉に因伯馬車会社が置かれ,鳥取~米子間を1里3銭の料金で走る。尾高町に乗客逓送貨物取扱所が置かれた。明治13年には松江―米子―鳥取間に電信線開通。同22年市制町村制施行により米子町が成立。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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