若桜村(近世)

江戸期~明治22年の村名。八東郡のうち。鳥取藩領。元禄14年に若桜宿と改称したといわれる(藩史5)。村高は,拝領高653石余,「元禄郷村帳」807石余,「天保郷帳」753石余(うち新田高100石余),「元治郷村帳」815石余,「旧高旧領」861石余。元禄の本免は6.4,「元治郷村帳」の物成は462石余。戸数は,「因幡志」309,「文久3年組合帳」330。「因幡志」によれば,当村は八東郡の中央に位置し,鳥取城下から7里余,西北隣の高野村へは17町,東部を若桜川(八東川)が流れ,村内には新・上・中・下・農人の5町がある。当地は近世初頭まで城下町で,慶長5年木下重堅が除封され,翌6年山崎家盛が摂津国三田より3万石で入封したが,元和3年池田氏の鳥取藩成立の際に備中国成羽に移封され,若桜藩は廃藩となった。元禄13年池田清定が1万5,000石を分知されて鳥取藩支藩の新田藩が成立し,当地を一応の本拠地としたため若桜新田藩と通称される。ただし,支藩の独自性はきわめて少なく,当地には城や陣屋も置かれなかった。地内に通称としての町がいくつかあるのは,中世の城下町としての名残と形式的ではあれ若桜新田藩の本拠地であったことの反映であろう。当地は,元和3年の山崎氏の転封以後,物資の集散地として,また若桜街道(播州往来)の宿場所として栄えた。すでに寛永14年の宿駅一覧に当宿の名が見え,同年の在方御定によると,当宿から鳥取まで7里で駄賃3匁5分,播磨国戸倉村まで5里で駄賃3匁2分,同千草村まで8里で駄賃は5匁,ただし1里に付5分宛で坂は1里に付6分。宿賃は主人・馬が10文ずつ,下人は5文とある。ほかに,制札場・牢獄・茶屋・地払米用の蔵が置かれ,若桜御目付・在下吟味役・浅井番所役人の居住地でもあり毎年7月10日と12月20日から25日まで牛市がたった(藩史5)。当村は,川役米として3石余を上納している。安政3年には宿送継場に指定され(県史12),文久3年には番所が新設された(県史13)。慶応4年には藩預りの長崎浦上村の切支丹22名は当村の牢獄に入牢した(県史13)。文政10年から13年にかけて,当村と不香田【ふこうだ】村との間で入会争論があり,天保2年には再び両村間で山論が起き藩役人が見分している(県史11)。「因幡志」によれば,産物は莨菪・滋地呉器(三ツ椀)・塗盆・和卓・檜笠・葺板・杉板・莞莚・長苧・鱒・御所柿などがあり,氏神は松上大明神・八幡宮・熊野権現。松上大明神は郡中の大社として元文4年に在中祈願所となり,藩主の病気平癒,寛保3年には藩主の婚礼についての祈祷が行われており(県史9),社領は1石3斗(藩史4)。そのほか,降雨・止雨・豊作などの祈祷も行われた(同社木札)。万延元年熊野権現と八幡宮を合祀,明治元年郡中大社の号を廃し郷社に列格され若桜社となり,同6年若桜神社と改称。礼祭日の5月1日には御幸行列も行われ,榊・神輿・武者行列などで終日にぎわう。当村にある寺院は,代々の若桜城主の菩提寺や祈願所が多い。日蓮宗白毫山蓮教寺は矢部氏,浄土宗不遠山西方寺は木下氏,曹洞宗万祥山竜徳寺は山崎氏の菩提寺である。そのほか,木下氏の祈願所である修験宝昌院,山崎甲斐守家治の母堂により建立された浄土宗光明山寿覚寺,真言宗仏光山正栄寺,修験の胎蔵院などがある。「藩史」4によれば,蓮教寺の寺領は9斗3升3合で同寺屋敷下は御免地,西方寺は寺領10石,境内の東北30間・西南50間が御免地,竜徳寺の寺領は1石5斗,寿覚寺は寺領2石8斗で境内の竪35間・横32間が御免地,正栄寺は寺領9斗8升で同寺屋敷下は御免地であった。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治5年地内に若桜郵便局が開局。同7年若桜小学校が開設,同年の教員数1,生徒数男31・女13(県史近代5)。同8年若桜鳥取往還が県の一等道路に指定される。明治7年,同18年大火があった。明治10年若桜警察分署設置。同12年の戸数338・人口1,556,うち男811・女745(共武政表)。同16年若桜村ほか6か村連合戸長役場に所属。同22年若桜村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7410387 |





