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意宇郡


堀尾氏,京極氏の短期間の支配を経て寛永15年からは松平氏支配。慶長16年堀尾氏は能義郡広瀬町の富田城から島根郡末次の松江城に移り,大橋川北岸に城下町を整備すると,大橋川を隔てて対する本郡白潟【しらかた】の地にも市街地が形成され,まとめて松江と呼ばれるようになり,出雲国の政治・経済・文化の中心となっていく。村数・石高は寛永14年の「国令後篇補遺」では36か村2万9,594石余(松江市誌),寛文4年の寛文印知では38か村3万2,833石余(続々群書類従),宝暦年間の「大数録」では41か村2万9,178石余,大根【だいこん】島8か村942石余となっている。同書の掲げる村は下意東・上意東・揖屋・下出雲里(郷)・上出雲郷・春日・竹屋・八幡・馬潟・矢田・大草・山代・日吉・古志原【こしはら】・佐草・大庭・東岩坂・西岩坂・熊野・平原・東忌部・西忌部・東津田・西津田・松江分・乃木・野白・福富・布志名【ふじな】・湯町・面白・玉造・大谷・林・東来待・上来待・西来待・白石【はくいし】・宍道【しんじ】・佐々布【さそう】・伊志見【いじみ】および大根島の波入浦・入江・二子・馬渡【まわたし】・亀尻・寺津・遅江・江島の各村である。郡家は乃木に置かれた。山陰道に沿って,松江のほか出雲郷【あだかや】・湯町・宍道などが町場として成長した。松江は近世を通じて発展していくこととなるが,寛永年間斐伊【ひい】川本流が東流して宍道湖に注ぐようになってから絶えず水害に悩まされ続けた。明治4年7月廃藩置県によって意宇郡は松江県の10区に,同年11月には島根県の第6~68区となる。この間いくつかの村の合併が行われ,11町と47か村となる。明治11年の郡区町村編制法に基づき,同12年1月6日第6~68区を改めて意宇郡を再置した。郡役所は意宇【いう】・秋鹿【あいか】・島根3郡共同ではじめ意宇郡灘【なだ】町に,のち島根郡殿町に置かれた。同13年5月経費節減のための,意宇【いう】・島根・秋鹿【あいか】・能義【のぎ】4郡合併の建議が県会で提出されたが採用されなかった。同23年8月1日付の郡制施行予定は,郡の統廃合や郡名の決定に手間取り,同29年まで延期する。同13年の戸数1万2,191・人口5万1,163(島根県一覧概表)。同22年の戸数7,764・人口3万5,262。郡内町村数は明治17年49・同22年16。当時の産業の状況を「全国農産表 明治10」でみると,主要産物は米3,419石余・大麦673石余・実綿5万5,302斤余・乾海老3万3,750斤余・葉煙草2万3,5430斤余・ニンジン1万7,430斤余・生蝋1万4,365斤余・紙類7,988斤余となっているが,白潟の市街地ではこのほか多種類の工産があった。明治22年4月1日郡内白潟の11か町と島根郷末次の22か町が合併して松江市が成立,意宇郡はこれを機に合併した津田・竹矢【ちくや】・出雲郷【あだかや】・意東・岩坂・大庭・乃木・忌部・湯町・玉造・来待・宍道・波入・二子の14か村を管轄することとなる。明治29年8月意宇・島根・秋鹿の3郡が合併,八束【やつか】郡となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7410624