100辞書・辞典一括検索

JLogos

61

出東郡


堀尾氏・京極氏の短期間の支配を経て寛永15年からは松平氏支配。もと出東郡(寛文元年検地帳まで)。初見は寛文8年の検地帳で,古代の「出雲【いずも】郡」と中世の「出東【しゆつとう】郡」が結合して「出雲【しゆつとう】郡」が成立したと考えられる。宝暦年間の「大数録」によると,万治元年に郡村入替があり,出雲郡は学頭【がくとう】・神庭【かんば】・下庄原・上庄原・吉成【よしなり】・羽根・武部・氷室【ひむろ】・神守【かんもり】・今在家・上鹿塚・中原・坂田・三歩市【さんぶいち】・上直江・下直江の16か村に,神門郡から繰り入れられた上阿宮【かみあぐ】・下阿宮・出西【しゆつさい】・求院【ぐい】・神立【かんだち】・千家・北島・井上・別名【べつみよう】・鳥屋【とや】・富【とび】の11か村と楯縫郡から繰り入れられた南・福富・黒目・中洲【なかのす】・沖洲の5か村を加えた計32か村高1万8,730石余で,現在の簸川郡斐川町の範囲とほぼ同じである。また,楯縫郡へ当郡の西林木・東林木・美談【みだみ】・国富・西代【にしだい】・出来洲・口宇賀・奥宇賀・唐川・別所の10か村を繰り出している。郡村入替以前の出雲郡が中世の出東郡の範囲であったと推定される。郡村入替は西流していた斐伊川本流が東流して宍道湖に注ぐようになったためで,U字形に湾曲する斐伊川に南・西・北を囲まれる郡域となった。寛文4年の寛文印知は久木(南・福富・沖洲・中洲・黒目を含む)・氷室・中原・神守・坂田・三分市・今在家・直江・庄原・吉成・武部・宇屋神庭【うやかんば】・羽根・学頭・上鹿塚・西代・東林木・西林木・美談の19か村で,高2万2,142石余とみえる。万治元年当時検地は施行中であり,寛文印知に際しては旧出東郡の実態によって幕府へ報告し「天保郷帳」にも踏襲されている。郡屋の置かれた直江町(現在の斐川町大字直江町)は近世後半に生産がさかんになった木綿の市のたつ場として経済的にも郡の中心であり,市街地が形成された。郡の東端の下庄原村も当時湖岸に位置し,斐伊川から導かれた高瀬川の終点で出雲国南部の諸郡と松江方面とを結ぶ水運の要地として,早くから市街地が形成された。斐伊川の沖積作用と川違【かわたがえ】工事によって東方宍道湖岸に新田が拡大され,天保年間の新川の開削は新田造成をさらに促した。反面,斐伊川・新川は絶えず洪水の不安でおびやかし,ときに大きな災害を及ぼした。戸数・人口は宝暦4年2,731戸(大数録),天明7年2,881戸・1万4,129人,文政7年3,420戸・1万6,302人,文久2年3,726戸・1万6,961人(有高輪切帳)。明治4年松江県の第46~49区となる。明治2年には凶作があって一揆が起こり,同6年には「求院切れ」と呼ばれる大洪水にみまわれて74人もの死者を出した。ために同7年には民費負担の苦しみを訴えて不穏事件が起こっている(明治初年農民騒擾録)。明治11年の郡区町村編制法に基づき,同12年1月6日第49~52区を改めて出雲郡を再置。郡役所は楯縫郡と共同で楯縫郡上ケ分に置く。同13年5月経費節減のための出雲・神門・楯縫の3郡合併と神門郡今市村に郡役所を設置の県会建議は採用されなかった。明治23年8月1日付の郡制施行の予定は郡の統廃合や郡名の決定に手間取り,同29年まで延期された。明治22年の戸数3,950・人口1万9,987。郡内町村数は明治17年25,同22年6。現在の簸川郡斐川町にあたる。明治10年の数字をみると米3万1,415石余・大麦395石余・実綿24万8,333斤余・藍葉1万3,840斤余などとなっている(全国農産表 明治10)。木綿は明治20年代に衰退,代わって養蚕が普及するが,隣郡の神門・楯縫両郡に比べてその普及は遅く,もっぱら湿田での米の多収穫が地主主導で行われる。明治前期の郡勢は明治13年3,884戸・1万8,482人(島根県一覧概表)・同21年3,729戸・1万8,721人(町村自治区取調書)。同29年8月1日に楯縫・神門・出雲の3郡が合併して簸川【ひかわ】郡をつくり,出雲郡は廃止となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7412368