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能義郡


堀尾・京極氏の短期間の支配を経て寛永15年からは松平氏の支配地。村数・石高は寛永14年の「国令後篇補遺」では43か村3万9,037石余(松江市誌),寛文4年の寛文印知では77か村4万2,592石余(続々群書類従)。松江藩は寛文6年に母里藩1万石,翌7年に広瀬藩3万石を分封し,母里藩1万石と広瀬藩1万5,000石は能義郡内であてられた。宝暦年間の「大数録」によると能義郡内は34か村1万5,399石が松江藩領,32か村1万5,000石が広瀬藩領,18か村1万5,000石が母里藩領となっている。松江藩領34か村は荒島・日白【ひじら】・久白【くじら】・西赤江・東赤江・上坂田・下坂田・下今津・上今津・中津・切川【きれかわ】・飯島・安来【やすぎ】・和田・黒鳥・細井・島田・門生・吉佐・宮内・佐久保・早田・清水・九重・野外・清井・清瀬・吉岡・野方・折坂・柿谷・鳥木・下吉田・上吉田の各村,広瀬藩領32か村は古川・矢田・松井・実松【さねまつ】・飯生【いなり】・利弘【としひろ】・沢・赤崎・月坂・東比田・西比田・布部・奥田原・宇波・菅沢・上山佐・下山佐・下田原・牧谷・広瀬・山形帳・石原・町帳・広島原・祖父谷【おじだに】・植田・神庭【かんば】・岩船・中島・下田頼・新宮・野帳の各村,母里藩領18か村は十年畑・小竹・赤屋・福富・寸須高江・日次横屋【ひなみよこや】・峠之内【たわのうち】・三坂【みさか】・大畑・市中屋・母里・服部・未明【ほのか】・安田中・安田宮内・安田関・北安田・大塚の各村である。宝暦4年松江藩領は家数1,710で,安来・吉佐・荒島が町場であった。鉄山・鉄穴【かんな】は記載がないが,安来町は郡南部および伯耆【ほうき】国から運び出される鉄の積出港として栄えた。明治4年7月の廃藩置県によって郡内の旧藩領はそれぞれ松江県・広瀬県・母里県となったが,同年11月合併して島根県が置かれ,旧能義郡は同11年まで第69~78区となった。この間8年から9年にかけていくつかの村の合併が行われ82か村となった。明治6年血税騒動が起こり,同年西隣りの伯耆国会見【あいみ】郡で農村の婦人が洋服を着て赴任する小学教師を血税をとる子取人とみて騒いだことから大騒動となり,その騒ぎは島根県の能義・神門・楯縫【たてぬい】郡にまで及んだ(明治初年農民騒擾録)。明治12年郡区町村編制法の実施によって能義郡は公式に復活する。郡役所は広瀬町に置かれた。「全国農産表 明治10」でみると,本郡の主要産物は米4,505石余・大麦600石余・実綿4万6,363斤余・藍葉2万9,062斤余・楮皮1万2,875斤余・生蝋2万670斤余・紙類1万459斤余などとなっている。また米産額半分を越す鉄の生産があった。戸数・人口は同13年9,096・3万9,686(島根県一覧概表),同21年8,679・4万193(府県統計書集成)。明治22年4月町村制施行に先立つ町村合併が行われ,広瀬町・飯梨【いいなし】村・能義村・荒島村・赤江村・安来町・島田村・宇賀荘村・大塚村・安田村・母里村・井尻村・赤屋村・比田村・山佐村の2町13村となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7413314