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三刀屋郷(中世)


 鎌倉期からみえる郷名。出雲国飯石郡のうち。治承・寿永の内乱後,越後国頸城【くびき】郡佐味荘【さみのしよう】(西大寺領)の地頭職を得ていた諏訪部氏は,承久の乱の戦功によって源助長(諏訪部扶永)が,承久3年9月14日付「関東下知状」(三刀屋文書/鎌遺2825)で新補地頭として没収地三刀屋郷地頭職に補任された。同下知状が三刀屋郷の初出史料。この地頭職は,萱原【かやはら】郷・粟谷【あわたに】郷をも含んでおり(三刀屋文書奥書/旧県史6),所領分割後も諏訪部本家が三刀屋郷惣地頭職を相伝した。同地頭職は,没収以前は飽馬斎藤四郎時綱の所領で,貞応年間には時綱による地頭職横領がおきており,同2年2月17日付「関東下知状」(鎌遺3053)で諏訪部三郎助守の知行が安堵されている。安貞2年2月に助長から助成へ三刀屋川以北の三刀屋郷河北地頭職(萱原・粟谷郷)が譲渡され,寛元元年6月11日付「将軍藤原頼経政所下文」(鎌遺6192)で,この分割譲与は安堵された。宝治2年10月27日の杵築大社遷宮神事勤行儀式次第を記した建久元年6月の「杵築大社造営所注進状」(鎌遺7089)には,流鏑馬勤仕の11番の諸郷保として「三刀屋郷 合飯石郷,久野郷」とみえる。三刀屋郷は鎌倉中期には地頭請所になっており,文永年中には造惣社用途料(六所神社)にあてられ社家の沙汰するところであったが,乃貢未進が起き,文永3年4月の「出雲国司庁宣」(出雲大社文書/鎌遺9525)で,地頭請所と国使入部が停止された。同8年11月の「関東御教書」(鎌遺10922)には「杵築大社御三月会」の頭役(相撲)勤仕の12番の諸郷として「三刀屋郷廿一丁 諏訪部三郎入道子」とみえる。建治2年12月26日付「関東下知状」(旧県史6)で河北地頭職(除舎弟助秀事)の助盛(守)から助親への譲渡が安堵され,弘安5年7月20日付「尼しょうしょう譲状」(佐方家文書/熊本県史料中世編4)で弥三郎(助光)に尼分の所領が譲与され,正応4年6月10日・20日の助親譲状で「三刀屋以北」は助光に譲渡され,永仁4年5月24日付「関東下知状」(旧県史6)で安堵された。正安2年閏7月の「国司庁宣」(同前)で三刀屋郷は造惣社用途料に宛てられ社家の沙汰するところとなり,地頭請所と国使入部が停止された。鎌倉末期には三刀屋郷内矢那井村・伊賀屋西山をめぐる惣領地頭助光(地頭代宗慶)と庶子家伊賀屋村地頭義助・同村一分地頭義秀(地頭代興玄)との相論が起き,元亨元年12月27日付「六波羅裁許状」「宗慶和与状」で和与が行われた(佐方家文書)。諏訪部扶重は,建武元年3月28日付の守護塩冶高貞の安堵状で三刀屋郷惣領地頭職を安堵されている(旧県史6)。同年に牛蔵寺住僧栄空・朝豪の三刀屋郷濫妨が起き,5月13日付「雑訴決断所牒」(同前)で祐重の知行が安堵された。同3年2月の軍忠状(荘園志料)に南朝方に属した三刀屋太田荘藤巻村地頭左衛門尉宇佐輔景がみえる。南北朝内乱期に諏訪部氏は北朝方に属し,同年6月の軍忠状(同前)に扶直がみえる。扶直は金崎城攻めに従軍しており,この間出雲においては萱原村惣地頭諏訪部時蓮の子時行が,名和一族の南朝方と交戦している(旧県史6)。この間に三刀屋郷惣領地頭職は大雲寺雑掌に押妨されたが,暦応元年12月4日付「室町将軍家御教書」,同2年正月20日付「多禰清瀬請文」(同前)で安堵された。康永4年3月の軍忠状には三刀屋郷内粟谷村一分地頭諏訪部貞扶とみえる(同前)。貞扶は観応2年正月の宛行状で土屋四郎左衛門に三刀屋郷萱原五十貫を宛て行った(同前)。山名師義は文和2年7月18日付宛行状で三刀屋郷内庶子等跡闕所を貞扶に預け,知行させたが(同前),伊賀屋村は須和部重信に安堵された(佐方家文書)。南北朝以降も三刀屋氏(諏訪部氏)の所領として継承され,応永3年9月9日・同5年9月9日に守護京極高詮,同18年3月28日に同高光,永享5年6月1日に同持光,宝徳4年4月10日に同持清によって同氏歴代(菊松丸―三郎―掃部助―三郎―助五郎)に当郷の総領分地頭職が安堵され,また永享2年8月10日には,一族佐方(諏訪部)越前入道に京極持重より当郷内の本領が多禰郷内の給地と合わせて安堵されている(佐方文書/旧県史6)。戦国期に至っても当郷の支配関係は変わらず,京極氏に代わって当国を領した尼子経久より,大永2年5月6日に三刀屋対馬守の所領として安堵されており(旧県史6),また三刀屋久扶から一族の佐方彦六左衛門尉に当郷内伊賀屋村が進めおかれている(佐方文書)。この間,伊賀屋上村のうち1反と一部山野が将軍家および京極氏の祈願所とされた長護寺領として伝領されている(佐方文書)。当郷は毛利氏出雲経略の進路に位置してその拠点となり,郷内の三刀屋氏の本拠三刀屋城は永禄~元亀年間,一時青木左衛門尉らの守備するところとなった。やがて毛利氏治下となってからは当郷855石3斗7合が吉川氏の一族で毛利家臣市川氏(元直・元栄)の知行となった(萩閥140)。なお当郷は永禄6年には「三刀屋上郷」とみえ,この頃上・下郷に分かれていたことがわかる(萩閥138)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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