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英田郡


当郡は天正年間から宇喜多氏の勢力下にあったが,慶長5年宇喜多秀家が関ケ原の戦で西軍の主力として戦って敗れ,かわって徳川家康の戦後処理により小早川秀秋が旧宇喜多領を手に入れその支配を受けることとなり,秀秋の老職稲葉通政が当郡に入った。しかし,小早川氏も同7年秀秋が死去した際に子がいなかったため改易され,同8年森忠政が信濃川中島から美作一国を与えられて入国,津山藩が立藩されその藩領となった。森氏は入国当初国境警備のため土居口に陣屋を設置し,のちに家老森可春が倉敷村に陣屋を置いた。森氏の拝領高は592か村・18万6,500石,このうち当郡は64か村・1万36石余であった(津山市史)。その後改出し2,432石余・新田開発1,035石余を数え,森氏改易後の「元禄郷帳」では64か村・1万3,505石余となっている。森氏は元禄10年当主長成の死亡と養子衆利の参府途上の発病により改易となり,同11年松平氏が10万石をもって津山藩主の座に就くが,「元禄郷帳」に全村幕府領とある通り,当郡は津山藩領に復さず幕府領となった。「美作鬢鏡」でも1万3,628石余すべてが幕府領で,古町・鹿田・土居・倉敷の各代官所が管轄していた。同書によれば,このうち当郡の土居代官所は当郡9か村・3,181石余のほか勝南郡1万4,981石余・勝北郡2,109石余・久米南条郡5,618石余,久米北条郡および真島郡7,637石余,倉敷代官所は当郡8か村1,365石余のほか勝北郡1万375石余・勝南郡6,061石余・久米南条郡1万235石余・久米北条郡4,657石余を管轄していた。享保15年郡内の大半は大坂城代となった土岐氏の所領にあてられ,その後も土岐氏領としての支配が続き,上野沼田藩領として明治期に至る。村数・石高は,「天保郷帳」64か村・1万3,659石余,「旧高旧領」65か村・1万3,662石余,うち上野沼田藩領1万279石余・津山藩領274石余・幕府領播磨竜野藩預所3,107石余。道は,東西の出雲往来と出雲往来勝間田宿から倉敷を経て岡山に至る倉敷往来が幹線であった。出雲往来では,代官所も置かれていた土居が宿駅とされていた。慶長9年出雲往来が室生坂から南の方能峠越えに道筋を変更した際土居が宿に設定されたといい,幕末には人足25・馬5を常備し,はじめは常備外人馬は他村雇いであったが,慶安2年助郷25か村が設定されている。また,倉敷は古くからの舟運の拠点で,江戸期に入ると吉野川の河岸として発達し,地内には蔵屋敷や商家が立ち並びにぎわいを見せた。郡内の物産としては牛蒡・紙・煙草・茶が知られる。明治元年先の長州藩との戦闘で居城を失った石見浜田藩主松平氏が,美作国内の飛地へ居を移して鶴田藩を立藩,郡内の幕府領竜野藩預り所はその藩領となった。明治4年廃藩置県により,旧沼田藩領は沼田県,旧津山藩領は津山県,旧鶴田藩領は鶴田県となり,同年11月統合されて北条県,同9年岡山県に所属。明治5年の区制施行により当郡は第17・18区に分けられ,同6年倉敷村に会所が設置された。同9年会所から会議所への改称,同10年会議所の廃止および区務所・戸長役場設置に伴い,第1戸長役場が川崎村に,第2・3戸長役場が倉敷村に設置された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7414387