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赤坂郡


当郡は宇喜多秀家の支配下に置かれていたが,慶長5年関ケ原の戦で秀家が西軍に味方して改易となり,代わって岡山へ入った小早川秀秋の領知に組み込まれた。しかしその小早川氏も,同7年秀秋死去に際して子がいなかったため改易された。同8年備前一国は徳川家康と血のつながりがある池田忠継に与えられるが,まだ幼少であったため,異母兄の利隆が一国を監国した。この監国時代を経て,忠継,忠継の弟忠雄,利隆の子光政と代わり,以降は光政系池田氏を藩主とする岡山藩領として明治維新に至る。寛永9年因幡鳥取から岡山へ入った光政は,備前の各道筋要害の地へ家老を配置したが,当郡では,その北端にあたる吉井川中流右岸周匝に池田伊賀が陣屋を構えた。周匝池田氏の高は2万2,000石で,その過半は郡内に宛行われた。当郡の村数と石高は,寛永備前国絵図で96か村・3万7,964石余。この高は岡山藩朱印高に基づく数値で,「正保郷帳」でも本村93・枝村62で同高,「元禄郷帳」でも村数94で同高となっている。実高では,この頃すでに4万石を超えていたと思われ,のち「天保郷帳」で村数94・石高4万4,132石余,「旧高旧領」では94か村・4万4,039石余となっている。また享保6年成立の地誌「備陽記」では,村数が本村94・枝村140で,高は朱印高の3万7,964石余,田畑反別2,719町1反余,家数5,578・人数3万4,156,牛2,697,池523,船数56,猟師鉄砲数263などとある。宝永4年の御郡々村数等改帳では,枝村ともで村数92,家数5,229・人数3万2,478。道は,岡山城下から町刈田【まちかんだ】・美作国英田【あいだ】郡倉敷を経て出雲往来の同英田郡勝間田宿をつなぐ倉敷往来と,山陽道の和気郡片上宿から同郡和気を経て出雲往来津山をつなぐ片上往来が郡内を通る。この両往来は周匝で交差する。また周匝は吉野川と吉井川の合流点に位置するため河岸も開かれていて,水陸交通の要地として栄えた。産物などは,「備陽国誌」によれば,産物の項に牟佐・馬屋など旧鳥取荘域の村々の綿花,鍋谷村の梅子,国原村の煙草,周匝村・矢原村の蘿蔔,新庄村の山椒,下塩木・大鹿などの村々の松茸,土師方・小倉などの村々の漆・楮が記され,また産業の項には川高村の三折はな紙,滝山・黒沢・黒本3村の杉原はな紙,黒沢・黒本などの村々の蚕,牟佐村の紺屋形,旧平岡郷・竹枝荘の村々の工匠・木挽,西中村の茶・筬筅,山手村・福田村の伯楽,牟佐・大久保などの村々の高瀬舟が記される。明治4年廃藩置県により岡山県に所属する。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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