100辞書・辞典一括検索

JLogos

20

荏原郷(中世)


 室町期~戦国期に見える郷名。後月郡のうち。戦国期には荘名としても見える。地名としては鎌倉期から見え,鎌倉末期源雅忠の女二条の自伝「とはずがたり」には,乾元2年頃と推定される記述中に「備中ゑはら」と見える。なお,那須系図(続群28上)によれば,四国屋島合戦の際,扇の的を射抜いた那須与一宗隆は,丹波・信濃・若狭・武蔵・備中各国内に恩賞地を与えられたといい,その1所は「備中絵原庄」であったという。その後,建武元年頃と推定される年月日未詳の白河結城宗広所領注文写(伊勢結城文書/南北朝遺中国四国96)に「備中国 荏原条 草間条」とあり,同3年2月6日の後醍醐天皇綸旨写(白河結城文書)では「備中国荏原・草間両条」などの替えとして参河渥美郡内の土地が結城氏に与えられている。正平6年12月19日の岩松頼宥感状(三吉鼓文書/広島県史古代中世資料編4)によれば「荏原高越城」を巡って足利尊氏方と直冬方が10月以来たびたび合戦をしている。同年月26日の岩松頼宥書状(毛利家文書)によれば,頼宥らは21日以来「荏原城」を囲んで合戦最中であったが,敵方上杉五郎・宮平太郎らが来襲するとの報を得て,長井貞頼の来援を要請している。郷名としては,応永元年の記録を文禄5年に書写したという吉備津宮惣解文(吉備津神社文書/県古文書集2)に後月郡4郷の1つとして「荏原郷 相造夫五十人 財清郷」と見える。永享12年4月8日,那須長高が那須資道・資英父子の菩提寺永祥寺へ「後月郡荏原郷道祖児村」の田畠山林を寄進している(永祥寺文書)。嘉吉3年5月12日には所盛経が御屋形様(細川氏久か)御祈願所として「荏原橘さこの西長谷山,同谷内下地,法泉寺寺領内退陰庵之領五段」を寄進している(法泉寺文書/県古文書集3)。氏久は永享~長禄年間頃の備中守護で,その頃のものと推定される年未詳5月14日の石川豊前入道宛細川氏久書下(同前)によれば,「備中国荏原郷那須資英知行買徳下地畠四段」を万代二郎左衛門尉が買得し,法泉寺へ寄進,それを氏久が安堵している。このほか,享徳元年12月吉日の伊勢盛定売寄進状,同年月日の竹井玄保寄進状,年未詳8月6日の備中守護細川勝久書下などに「備中国荏原長谷法泉寺」と見え,永正4年10月23日の道寿売寄進状には「江原庄 道□」と見える(同前)。この間,「政所賦銘引付」によれば,文明6年閏5月23日「備中国荏原地下人守護被官平井安芸守」という人物が,路次で荷物を押し取ったとして訴えられている。また「賦引付」同13年5月24日条(室町幕府引付史料集成下)には「備中国莅(荏)原郷百姓等ニ借与弐千疋事」とあり,珠竜侍者が5分の1の進納を命じる奉書を求めている。この珠竜侍者については,同じく同年11月3日条(同前)に「莅(荏)原政所」とあり,8貫文を清備中守秀数に貸していたことも知られる。「政所方書」によれば,同年6月13日「荏原郷祥雲寺奈須(那須)修理亮・伊達常陸介等住人」が徳政を理由に借銭を返済しないので,その未済を催促する奉書が出されている。また,「蔭涼軒日録」文明17年9月3日条(続大成)によれば,荏原祥雲寺領につき訴訟が起こっている。この訴訟に関する記事は同年10月14日・11月11日・11月25日,長享2年2月9日各条にも見え,伊勢掃部助盛頼が文明5年以来祥雲寺領を違乱していたという(同前)。戦国期に成立したと推定される年月日未詳吉備津宮流鏑馬料足納帳(吉備津神社文書)には康正2年分として「一所 四貫文 任(荏)原 直納 路せん⊏⊐」と見える。永正4年10月23日には「江原庄寿□(道寿カ)」が当地内の山数5反30代を当地の法泉寺に寄進している(法泉寺文書/県古文書集3)。下って文禄3年12月13日の那須資清覚書(田村大宮司家文書/筥崎宮史料)によれば,筑前箱崎宮の修理に際して,当地の住人那須資清父子が奉行している。なお,当地は大月国重系刀工の本拠地であり,国重系の作刀が戦国期から幕末まで行われた(古刀史年表・日本刀剣全史6)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7414998