邑久郡

「延喜式」民部省国郡表に見える備前国八郡の1つ。九条家本に「オホク」の訓を付す。大化前代は「大伯国」の領域で,「神魂命七世孫佐紀足尼」を始祖とする「大伯国造」が支配したと伝える(先代旧事本紀国造本紀)。吉備一族と同祖伝承をもたないことから,吉備氏を監視するために配置されたと考えられている。大化改新以後は「大伯評」が設定された(藤原宮木簡1解説)。斉明7年,百済救援のため瀬戸内海を西行する天皇一行は,「大伯海」に到ると大海人皇子の妃大田姫皇女が女児を産んだので「大伯皇女」と名付けたとある(日本書紀斉明7年正月甲辰条)。大宝令の郡制施行に伴い「大伯郡」が成立する(藤原宮出土木簡概報4)。「邑久郡」と改称されるのは,好字を選び国郡名を記せという制が出された和銅6年以後である(続日本紀和銅6年5月甲子条)。養老5年,「邑久・赤坂二郡之郷」を割いて藤原郡が立てられた(続日本紀養老5年4月丙申条)。平城宮出土木簡には「和名抄」に見えない「八浜郷」(平城宮出土木簡概報19),「旧井郷」(同前19),「方上郷寒河里」(同前16)の郷里名がある。片上は現在の備前市内,寒河【そうご】は日生【ひなせ】町東部に比定されるところから,養老5年以前の当郡域は,播磨との国境に到る海岸地帯を含む広大なものであったと推定される。さらに,天平神護2年には当郡香登【かがと】郷など6郷1村が藤野郡へ編入された(続日本紀天平神護2年5月丁丑条)。平城宮出土木簡には「邑久郡香止里」と墨書したものがある(平城宮出土木簡概報6)。これより先,天平15年には「邑久郡新羅邑久浦」に大魚52隻が漂着したと見える(続日本紀天平15年5月丙寅条)。神護景雲3年,当郡人別部比治ら64人に石生別公の姓を賜った(続日本紀神護景雲3年6月壬戌条)。宝亀11年,当郡の荒廃田100余町を右大臣大中臣朝臣清麻呂に与えたとある(続日本紀宝亀11年4月辛丑条)。藤原宮や平城宮から出土した木簡によれば,当郡から都へ俵・黒米・白米・官交易大麦・調塩・年料醤などの貢進が知られる。延暦18年,式部少輔和気朝臣広世は父清麻呂の遺志をうけ,私墾田100町を口分田と交換して和気・磐梨・赤坂・邑久・上道・三野・津高・児島など8郡30余郷の賑救田としている(日本後紀延暦18年12月丁酉条)。「延喜式」神名帳によれば,郡内に美和神社・片山日子神社・安仁神社の3座が鎮座する。承和8年,安仁神は名神とされている(続日本後紀承和8年2月己酉条)。「和名抄」は「於保久」の訓を付し,邑久・靱負・土師・須恵・長沼・尾沼・尾張・柘梨・石上・服部の10郷を記す。養老戸令定郡条によれば,中郡に相当する。郡域は,長船町・邑久町・牛窓町の全域に備前市・岡山市の一部を含む地域に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7415275 |