100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

草壁荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。小田郡のうち。寛喜3年4月25日の後堀河天皇宣旨(門葉記/鎌遺4131)に,「備中国弐箇処 草壁庄 県主保」とあるのが初見で,当荘など5か所が比丘尼観如の譲りに任せ無品尊守親王家(綾小路家)の門跡領として相伝することが認められている。文応2年2月12日の後嵯峨上皇院宣(県史未収天竜寺文書)では当荘預所職の高橋宮(尊守法親王)から中納言阿闍梨御房への譲与が安堵されている。嘉元3年6月12日の六波羅下知状(熊谷家文書/大日古)によれば,庄松王丸と伯父親資とが亡父敬願の遺領に関して行った相論の和与が認められているが,その内容は遺領のうち3分の2が松王丸分領,3分の1が親資分領,京都屋地も親資分領,池河狩屋などは両方で管理する。ただし「摂津国久貞名御位田下司職并備中国草壁庄東方之地頭屋敷〈但,就屋敷昌壱町余在之〉」は親資が領知するというものであった。下って,「太平記」によれば,建武3年4月備後の鞆をたった足利尊氏は「備中ノ草壁ノ庄」に着いたという(古典大系)。康永3年9月6日の光厳上皇院宣(吉田文書)によれば,「草壁庄□(西カ)方」は入道忠□□□の一期の所領であり,当荘東分とともに管領するよう「道□(禅カ)親王」に伝えるよう月輪中将に命じている。貞和5年12月18日の侍従某奉書(天竜寺文書/福井県史資料編2)によれば,このとき中西姫君御遺領であった「草壁庄〈東西〉」などが山城国嵯峨の善入寺に寄進されている。正平9年12月21日には南朝の後村上天皇が「草壁庄西方地頭職〈庄兵衛四郎并一族等跡〉」が毎年3月の御影供舞楽料所として河内国金剛寺に寄進されている(金剛寺文書)。同18年10月14日の足利直冬御教書によれば,「草壁郷地頭職〈庄駿河守跡〉」が吉河山城守に,同21年12月8日の足利直冬御教書でも「備中国庄駿河入道跡」などが吉河讃岐守に各々勲功賞として宛行われているが(吉川家文書2/大日古),これらはいずれも南朝方のものであり,庄氏が北朝方に与していたための措置と思われ,実効性は疑わしいと思われる。応永12年12月20日の心戒等連署奉書には「善入寺領備中国草壁東西半済事」とあり,同寺雑掌へ返付するよう命じられ,同14年11月13日の備中守護細川頼重寄進状により故陽中春公禅定門の菩提として善入寺に去り渡されている(県史未収天竜寺文書)。同18年2月27日の備中守護細川頼重寄進状では,「草壁庄西方安主職永平名」が善入寺に寄進され,同24年閏5月24日の備中守護細川頼重遵行状では,前年9月20日の「草壁東西」の役夫工米以下諸公事臨時課役などの免除が施行されている(同前)。永享4年10月21日の御前落居奉書(御前落居記録)によると,前述の永平名安主職は荘内(現在広石が字として残る)に居住すると思われる広石次郎によって押妨されている。当時広石氏一族は当荘とは小田川を挟んだ対岸にある三成郷やその北方10余kmの水内北荘にもたびたび濫妨を重ねており,かなりの勢力を有していたものと思われる。同7年7月25日の管領細川持之施行状(県史未収天竜寺文書)によれば,同年5月28日に「草壁東西・有漢保」に対する臨時課役段銭人夫以下諸公事を免除し,守護使入部が停止されている。嘉吉元年4月19日には備中守護細川氏久が前述の永平名案主職を善入寺に安堵している(同前)。しかし,同案主職を押妨するものがあり,同年閏9月12日の管領細川持之書状によれば,同案主職らに本主と号して乱入した清水左近蔵人入道を退けるよう備中守護細川氏久に命じている(同前)。寛正2年3月18日にも備中守護細川勝久の遵行状(同前)で,去年9月26日の管領施行状の旨に任せて「草壁東西」などの役夫工米并臨時課役段銭人夫諸公事以下を停止するよう命じている。同5年と推定される11月12日の備中国守護代(石川資次・庄経郷)連署触状案(東寺百合文書サ)に安芸国仏通寺一切経勧進奉加荘主17か所の1つとして「一,草壁庄主」と見える。延徳4年6月1日の光賀・直朝連署奉書(県史未収天竜寺文書)は,石川源左衛門尉および庄甲斐守に宛て文明9年12月24日の奉書に任せて「宝篋院領備中国草壁荘并有漢保」を宝篋院雑掌に沙汰付けするよう命じている(同前)。なお善入寺は文明年間頃には宝篋院と称されており(文明6年6月25日室町幕府奉行人連署奉書/室町幕府文書集成奉行人奉書篇上,同8年12月24日政所賦銘引付/室町幕府引付史料集成上),以降善入寺関係の史料は見えない。また当荘内の田地が洞松寺に寄進されている。文安6年卯月21日の竹井広保寄進状(洞松寺文書/県古文書集1)によれば,「合壱段者〈但坪ハ草加部庄池内船木口也〉」が同寺に寄進されている。康正3年2月10日には法久禅尼が木村新左衛門方の田,「合壱段者〈在所者草壁之庄東方長屋谷之請名内也〉」を4貫800文で買得し,洞松寺に寄進している(同前)。長禄3年3月28日に水河貞久が3貫100文で売り渡した田「合壱反十代〈在坪東草壁,一所者西サコノエノ木ノ西東四十代也,又一所廿代高橋ノツゝミノ下也〉」は,寛正6年3月吉日に法久禅尼から洞松寺に寄進されている(同前)。また長禄4年12月11日に庄道珍が売却した田「合半〈在坪者東草壁地頭方之内長屋渓也,木斗代〉」は,同年月日に同寺に従永が寄進している(同前)。寛正3年2月16日庄道春が売り渡した田1反も「草壁庄内沽蘇辺,四至〈西者一部,東者領家〉」「地頭方六分一之内」にあり,文明4年6月5日に庄則資が寄進した田1段も「東草壁庄地頭方六分一」にあった(同前)。下って天正19年11月24日の洞松寺領坪付には「備中草壁庄内横谷村洞松院(ママ)領」,天正20年2月15日の洞松寺領坪付にも「備中草壁庄横谷船木山洞松寺」とある(同前)。吉備津宮との関係では,戦国期に成立したと推定される年月日未詳の吉備津宮流鏑馬料足納帳(吉備津神社文書)には康正3年分として「三貫文〈本ハ四貫文,壱貫文者地下徳分〉くさかへ 直納 路せん三百文」,長禄2年分として「壱貫五百文 くさかへ 直納」と見える。応永元年の記録を文禄5年に書写したという吉備津宮惣下文(同前/県古文書集2)には小田郡7郷の1つとして「草壁郷 生栗十石 小野高満」と見え,小野高満なる人物が生栗10石を吉備津宮に献じており,当地の管理に関わっていたものと考えられる。なお,文明18年12月13日および文明19年正月日の年紀を有する刀銘にはそれぞれ「備前国住長船勝光宗光備中於草壁作」と見える(古刀史)。現在の矢掛町南部,小田川右岸の横谷・里山田・南山田・中一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7416176