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久米北条郡


寛文元年津山藩主森長継は当郡を久米北郡と改めたが,天和2年幕府は公簿に美作10郡とあるのに国内では12郡として扱っているのを不可とし,10郡に改めさせ,藩では久米南・久米北両郡を1郡に改め久米郡とした。しかし,元禄11年美作を旧慣通り12郡として扱う方が便利であるという幕府目付や代官などの主張を取り入れ,幕府は寛文年間以前の郡数・郡名に復することを許可した。江戸初期の村数は,久米荘6・錦織【にしこり】郷1・打穴【うたの】郷7・垪和【はが】郷16・倭文【しとり】荘15・大井荘8の計53か村(作陽誌)。村数・石高は,「元禄郷帳」33か村・2万8,777石余,「天保郷帳」50か村・2万8,870石余,「旧高旧領」60か村・2万8,871石余,うち幕府領竜野藩預所8,770石余・鶴田【たずた】藩領8,325石余・津山藩領6,718石余・挙母藩領5,056石余。天正年間宇喜多氏,慶長5年小早川秀秋の所領となり,同8年森忠政が美作国守として入封しその支配下に入った。元禄10年森氏除封後は幕府領となった。同11年松平氏が美作10万石を与えられ入国した際,当郡のうち津山盆地に接する中北村,文政2年錦織東・錦織西,天保7年宮部上・宮部下・中北下・南方中,同9年宮尾・領家,同10年戸脇の各村は津山藩領となった。元禄14年29か村は甲府藩領となり,宝永元年藩主徳川綱豊が江戸西之丸に入るに際し西丸領と称した。宝永6年綱豊が将軍に任ぜられ家宣と改められると,西丸領は再び幕府領となった。元禄15年三河国挙母藩内藤氏が大井荘・倭文荘と垪和郷の一部の12か村を領し幕末を迎えた。延享4年相模国小田原城主大久保氏が垪和郷・倭文荘の一部34か村を領したが,文化11年幕府領となった。文政5年出羽国上ノ出藩主松平氏が打穴郷を中心とする8か村を領するが,文政8年幕府領となった。石見国浜田藩は元保7年当郡17か村を飛地として領したが同藩は第2次長州戦争で長州軍に敗れ,慶応3年当郡の所領に逃れて来た。幕府は浜田藩に当郡21か村と久米南条郡29か村を与え,鶴田に役所を設置したため鶴田藩と呼ばれた。この時当郡をはじめ近隣の郡の農民は鶴田騒動を起こしている。旭川に面する垪加郷通谷村は江戸期には多くの高瀬舟が発着する港で,河岸には倉が立ち並び,森氏の時代から船番所が設けられていた。明治4年津山県・鶴田県・挙母県となり,北条県を経て,同9年岡山県に所属。明治5年区制施行により当郡は第26~29区に分けられ,翌6年第11番会所が中須賀村,第12番会所が桑下村に置かれた。同9年会所が会議所と改称され,第10番会議所が桑下村に置かれ本郡を管轄した。同10年会議所の廃止により第23区務所が桑下村に設置され,当郡と久米南条郡を管轄した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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