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下村(近代)


 明治22年~昭和31年の大字名。はじめ鴻村,明治40年琴浦村,大正4年からは琴浦町の大字。明治24年の戸数468,人口は男1,070・女872,学校1・船60。同44年の戸数681・人口3,181。昭和23年の世帯数1,626・人口7,386(男3,386・女4,000)。明治中期頃から瑜伽参詣客は減少,また海上交通機関の変革で帆船が機動力化し,大型化し沿岸航行は徐々に衰退,また明治43年国鉄宇野線の就航で下津井・吹上・下村・田ノ口とも急激にさびれた。下村港は繊維関係の原料・製品の移出入に利用された。大正初年穀物・糸類・織物・編物など46万余円を仕向地阪神・北海道・広島・四国に移出,絹糸・絹織物・食品などを大阪・香川などから移入した。大正12年の移入231万余円・移出235万余円,昭和2年の移入178万余円・移出301万余円(県統計年報)。下村紡績は明治26年株式会社に改組,同36年破産,大正元年愛媛紡績へ売却,昭和9年琴浦紡績となり同15年竹村綿業の傘下に入った。明治29年鴻村銀行創立,同36年倒産。明治23年榴浜小学校は鴻小学校と改称,昭和22年琴浦第一小学校,同25年琴浦西小学校と改称。琴浦西保育所が昭和23年認可,のち倉敷市営となる。鴻漁業組合は明治36年認可,昭和24年琴浦漁協として認可,同62年4月組合員137人。明治43年鴻郵便局は下村局と改称,同44年電話開通,昭和3年現在地に移転。昭和11年来塩業組合によって研究が続けられた真空式製塩は同12年の物価高騰による塩田経営の危機を反映,同14年下村の萱刈の埋立地で起工式,翌16年完成操業開始。同27年の組合員82名,同30年には塩田72ha,生産1万3,000t,就業人員は93人でうち事務部員29人・工員64人,浜子は150人に達する。同31年児島市下之町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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