御野郡

備前・美作などを支配する宇喜多秀家は,文禄~慶長初年に旭川の河道を付替え,岡山へ本丸を移動,父直家の拠った郡内石山城の規模を拡大した岡山城を築き,城下町経営に着手した。慶長5年関ケ原の戦の戦後処理で,宇喜多氏は改易,代わって岡山城へは小早川秀秋が入った。秀秋は備前・美作の領民を動員して外堀を掘るなど城下整備に乗り出すが,同7年死去し,子がいなかったため小早川氏も改易となった。同8年備前一国は池田忠継に与えられるが,まだ幼少であったため,異母兄の利隆が岡山城へ入った。この備前監国後,忠継,弟忠雄,利隆の子光政と続き,以降光政系池田氏の岡山藩領となる。元和元年岡山藩主となった池田忠雄は,当郡南部の新田開発に着手した。寛永元年には平福新田反別18町6反余・高321石余が,同2年には福島新田反別59町7反余・高991石余が完成し,灌漑用水として,浜野川ともいう西川が開削された。西川は北方村で旭川から取水し,岡山城下を貫いて福浜村に至り,そこから二手に分かれて,福島・福田水門を経て児島湾に注いだ。なお江戸期は主として飲料水に使用したため,同川での魚類の捕獲は禁止されていた。寛永備前国絵図では郡内村数66,高3万6,858石余,「正保郷帳」では村数81うち本村50・枝村31,高3万6,858石余。「元禄郷帳」では61か村・4万2,707石余,「天保郷帳」では63か村・5万2,800石余,「旧高旧領」では63か村・5万2,282石余とある。また享保6年成立の地誌「備陽記」では岡山藩朱印高に基づく郡高4万2,707石余,新田が高3,084石余・田畑反別2,805町4反余,村数は本村59・枝村42ほかに新田4,家数3,831・人数2万1,971,馬3・牛1,269,船数36,鉄砲16とある。宝永4年の御郡々村数等改帳では家数3,576・人数2万1,558。郡内の産業は農業が中心で,稲作・麦作のほか江戸後期には綿作・菜種作が展開し,児島湾沿岸地域では白魚・鰻漁などの水産業が余業として展開した。なお「備陽国誌」では,産物の項に当新田村の葮・伏老,西大川の香魚・鯉・蜆が,産業の項には四日市村の紙,浜野村などの漁,七日市村の瓦,大供村の鳥銃薬が記される。当郡内の主要道路には,宇喜多秀家によって岡山を通るように付替えられた山陽道のほかに,岡山城下を基点に,北上して津山へ至る津山往来,南下する庭瀬街道・天城道などがあった。旭川河口には,福島村に寛文6年船番所が置かれて,旭川を下ってきた高瀬舟や海船の取締りが行われた。また浜野には平井渡しと呼ばれる渡し場があり,対岸の上道郡平井村字平井に向けて旭川を渡っていた。明治4年廃藩置県が実施されて,岡山県管轄下に入る。同9年津高郡野殿村を編入したが,旭川左岸にある浜・西川原・東川原・竹田の4か村は上道郡に編入された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7419791 |





