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有留村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。高田郡のうち。広島藩領。明知・給知入り交じりの地。村高は,元和5年「知行帳」では有富村と見え693石余,「芸藩通志」699石余(反別50町8反余),「天保郷帳」693石余,「旧高旧領」699石余。鎌倉寺山南側の牛岩新開地は天明2年の地詰で,高6石余。「芸藩通志」によれば,村の規模は長さ1里・幅2町で,戸数219・人数1,073,牛76・馬10。農間には楮紙・炭を生産。松蕈の産出も多い。また高頭・森山に八幡宮各1社がある。さらに祇園社は天正12年羽仁又右衛門の勧請。鎌倉寺山は「山の景牛の形に似たるを以て」(高田郡誌)牛岩とも呼ばれ,地名ともなる。その山頂の鎌倉寺跡は高田郡村々覚書に「本尊文珠,宗旨は禅宗之由,毛利御時代は大寺之由」とあるが,小堂を残すのみ(同前)。口碑によれば鎌倉寺の小僧は味噌汁の鍋をかけたままでも井原村まで豆腐を買いにいけたほどの疾速だったといい,また廃寺の頃本尊の観音は井原高源寺に移されたとも伝える(白木町史)。真宗本願寺派西光寺は天正7年僧教雲の開基で,もと禅宗の栖面山法照院と号した。また難所大仙峠には宰ノ神・伊勢社,毛利元就発願と伝える五社明神の厳島社と油免5反の地がある。年貢米は川舟時代を通じて上三田とゞろき浜(広島市白木町)へ陸送が定められた。寛永9年7月20日の覚書に小越村と当村とで山論を起こしたほか堀村(東広島市志和町),竹仁村(賀茂郡福富町)などと再三にわたり争論があった。そのため一帯を御建・御留山に指定された。正徳2年497反4畝15歩の畝高が,文政2年には69町9反8畝に改変されている。正徳4年の郡方新格に不服な村民が頭庄屋土肥小左衛門宅を襲撃に及び,享保17年2月にも百姓50余人が広島城下へ押しかけ,越訴寸前に村役人態のものが連れ帰ったという記録もある。天明・享保の凶作で小百姓・浮過の階層は特に悲惨であった。天保7年飢餓するもの少なからず,有留村罹病者140人・病死87人という大飢饉を経験している(高田郡誌)。「国郡志書出帳」によれば天明2年の高付で新開6石余が増え,田463石余・畑68石余・屋敷20石余・地概高148石余となっている。これは高田郡村々覚書に記載される「石とう」という枝郷高9石余や飛郷牛岩の開拓が進んだ結果と推察される。明治4年広島県に所属。学制発布に伴い明治7年礦留館(男32・女0),幸喜舎(男17・女1)を設立。明治9年官定田106町7反,収穫高1,558石,平均反収1石4斗6升と算定され一挙に3倍近く増え,さらに明治15年142町6反の査定を受けるに至った。東林庵観音堂は元禄11年再興。堂道峠にはイボ神さんこと留水神が祀られ,名所魚切滝がある。変斑糲岩による3段20mの瀑布で雨季の眺めは絶景である。産物としては松・栗材・薪炭・桐・竹・松茸・柿渋・藁工品・和紙(楮)などがあった。明治21年の戸数302・人口1,617。同22年有保村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7420601