可部荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。安芸国安北郡のうち。「和名抄」の漢弁郷を主体として成立した荘園。保延5年7月28日の鳥羽上皇院庁下文案で「永為大伝法院之沙汰,以安芸国能美・可部両庄之年貢,宛供米所運送也」とある(根来要書)。近世に成立した高野山検校帳は,さらに初出時期をさかのぼらせ,大治2年11月2日条に,高野山に参詣した鳥羽院が「安芸国可部庄用途百八石」を寄進したと記す(高野山文書)。高野山領。嘉応3年正月日の伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文には,山県郡壬生荘の四至が記されるが,「限南坂山峰并可部庄禰境大須々木尾鼻」とあり,壬生荘と可部荘が接していた(新出厳島文書)。その場所は可部峠付近と思われる。南原付近も荘域に含まれていた。安元2年2月日の八条院領所領目録では,八条院庁分御荘として「安芸国能美・可部・開田」と見える(内閣文庫所蔵山科家古文書)。この頃年貢を高野山へ,雑公事を八条院へ納入したと考えられる。建保5年6月21日の将軍家政所下文によれば,安芸国守護であった宗孝親が当荘地頭となっており,国衙との間で杣における榑の伐採をめぐって相論を生じている(田所文書/芸藩通志)。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録案に,庁分として「安芸国安摩庄 能美庄 可部庄 開田庄」(竹内文平氏旧蔵文書),建武元年6月24日の高野山西塔文書請取状にも,「西塔庄安芸国安麻可部能美年貢米日記」などとある(高野山文書)。当荘は東方と西方に分割されていた。東方については,嘉元元年11月27日の関東下知状によれば,可部荘東方地頭遠江修理亮後家代源秀が三入荘に乱入し,狩猟や山木を伐採するのを停止している。遠江の受領名は武田氏に多く見られるからその一族であろうか。嘉元2年7月16日の六波羅施行状でも源秀の三入荘乱入が停止されているが,ここには「可部庄東方地頭代源秀」と見え,当時当荘東方の地頭は遠江修理亮後家,地頭代は源秀であった。文和5年3月16日の武田氏信預状では,「可部庄東方内辰原〈三位房跡〉」が熊谷八郎左衛門に兵粮料所として預け置かれている。一方,可部荘西方は,応永14年2月27日の武田信之預状によれば,「可部庄西方之内品河跡」が熊谷在直に預けられている(熊谷家文書)。この頃現地では安芸国守護武田氏の進出が目立ち,福王寺は同氏の援助のもとに正和年間に再興された(福王寺文書)。福王寺領には荘内の重吉名・後谷・綾谷名・小奈原・九品寺・大毛寺などが見える(同前)。文和5年3月16日,武田氏信は「可部庄東方内辰原〈三位房跡〉」を熊谷八郎左衛門尉に預け置いた。その後熊谷氏は加部荘内名原両村・賀部荘内内道入道跡・可部荘西方之内品河跡などを相次いで預け置かれ,可部荘内進出の足場を作った(熊谷家文書)。応永7年1月18日の高野山金剛峰寺々領注文に「安芸国可部庄〈西塔領〉能美庄〈同〉安摩庄〈同〉」と見える(高野山文書)。しかしほどなく高野山の文書から当荘名は消滅した。下って,大永頃と推定される年未詳6月3日の毛利元就自筆書状によれば,元就が大内氏から与えられた「可部」を熊谷信直に与えている(熊谷家文書)。天文10年7月23日大内義隆は可部温科【ぬくしな】の代所として佐東郡緑井400貫等を元就に預けたが,毛利氏と可部との関係はなお存続した。天文21年2月2日の毛利元就・隆元連署知行注文には「可部 熊谷知行」と見えている(毛利家文書)。熊谷氏は,天文年間尼子氏の郡山城への攻撃,毛利氏による金山城攻撃の際,一貫して毛利方に立っており,その信頼を得た。可部荘内には武田方についていた山中氏が大毛寺船山城にいたが,熊谷氏に滅ぼされたという(芸藩通志)。ところで,永正3年5月1日の武田元繁判物には,「可部新庄分之内」と見え,可部新荘のうち,山中知行分の奥尾と散在分,安田知行分・木村知行分を除いた地が熊谷元直に宛行われている。また,天文10年7月19日の大内義隆判物に「当郡新庄七十五貫地」とあり,熊谷信直に宛行われている(熊谷家文書)。当郡新荘とは可部新荘のことと推定されるが,可部荘と新荘との関係は未詳。なお,戦国期には可部市が存在した。この市は現在の可部1~9丁目の旧道付近に比定される。厳島廻廊棟札写に「一廻廊一間 檀那 当国可部市住神立孫兵衛尉 天正五年十月吉日敬白」と見える(大願寺文書)。可部市は戦国期に高松城の城下町として,また陸上・水上交通の物資流通の要衝として発達したものと考えられる。「芸藩通志」に「此地,中古は可部町屋村,又南村市と称せしとも云」とあり,可部町は三入荘内の町屋村と一村であったという。江戸期の可部町は北側で下町屋村に,南側で下町屋村飛郷小松原に隣接しており,この伝承を裏付ける。南村市は三入荘南村の市の意から出ている。このように可部の称を有しながらも,可部荘よりは三入荘との関係が深い。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7421351 |