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鞆浦(中世)


 鎌倉期から見える地名。沼隈郡のうち。「鞆浦志」には鞆正友が承久の乱に際し上皇方として活躍したとあり,乱後には新補地頭が置かれたらしい。天福元年5月日付石清水八幡宮寺所司等言上状によれば,寛喜2年鞆浦地頭代が石清水八幡宮寺領藁江荘の神人2人を殺害したとして訴えられている(石清水文書)。乾元元年当地を訪れた後深草院二条は,宿屋や遊女屋が軒を連ね,絵具が入手できたと記しており,物資の集散地として繁栄していた様がうかがえる。また発心して尼になった大可島の遊女の長者の話も記しており,宗教活動も盛んであったらしい(とはずかたり)。弁天島には文永8年6月15日銘の九重石層塔婆があり,心地覚心(法灯国師)を開山とする安国寺の前身金宝寺の阿弥陀三尊像は,同11年平頼影を大檀那として造立されたことが胎内銘から知られ,胎内には善光寺如来造立勧進帳や血書阿弥陀経など多数の人々の結縁を示すものが納められていた。さらに延慶4年には鞆の平為重が大般若経を備前西大寺に施入しており(西大寺文書/岡山県古文書集),熊野信仰も盛んで,嘉暦4年6月13日付の先達大進公尊宿坊証文が残されている(熊野那智大社文書)。南北朝内乱期には軍事上の要地としてしばしば争奪の的となった。元弘3年には天皇方についた伊予の土居・得能氏,因島の村上義弘らが長門探題時直を追い,鞆をおさえて内海航路を遮断している(三備史略・正慶乱離志)。足利尊氏も九州へ走る際,鞆・尾道に今川顕氏・貞国兄弟を置いて東上に備え,鞆で光厳上皇の院宣を受け取り,東上の際も鞆に軍勢を集結させた(梅松論・太平記)。康永元年には,金谷氏から伊予の南朝勢力が鞆に上陸して大可島城を奪い,小松寺に陣する北朝勢と合戦があった。さらに,貞和5年中国探題として鞆に下った足利直冬は,大可島城に拠って塩飽・村上両水軍を味方につけるべく画策しており,観応の擾乱に際しては,石見から備後を経て帰洛途中の高師泰を追撃すべく上杉朝定が鞆に上陸している(太平記)。この間,暦応2年には鞆浦釈迦堂院主法智代小河正徳房らが浄土寺領内に乱入し,得良郷の年貢徴収を妨げており,観応2年にも小松寺雑掌賢性が同じく浄土寺領得良郷に介入している(浄土寺文書)。永享11年から文安4年までの備後国大田荘年貢引付(高野山文書)には鞆の船持が尾道船籍の船を買取ったり,大田荘の年貢輸送に進出したことが見え,「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年に鞆船籍の船が17回兵庫北関に入関している。さらに応仁元年には渡唐船鞆宮丸が見え(戊子入明記/大日料8‐1),翌2年には友(鞆)津代官藤原光吉が朝鮮に使節を派遣したことが「海東諸国紀」に見えるが,この藤原光吉は備後守護山名氏の代官と考えられる。応仁・文明の乱に際し,文明3年4月には東軍の山名是豊が鞆に進駐(三浦家文書)。乱後は次第に大内氏の勢力下に組込まれていったようで,永正4年大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際には,守護山名致豊が高須杉原元盛・上山広房らに尾道・鞆での接待を命じている(閥閲録遺漏4‐2・閥閲録40)。大内氏の東進に対して尼子氏勢力も南下するようになり,大内義隆は天文13年7月3日因島の村上吉充に鞆浦18貫の地を与え(因島村上文書),また天正19年小早川隆景は鞆に本陣を置いて尼子方の神辺城を攻撃している(譜録)。その後大内義隆にかわった陶晴賢が厳島合戦で毛利氏に敗れると,備後も毛利氏支配下となったが,それ以前の天文22年5月には渡辺氏に命じて鞆に要害を築かせている(同前)。天正4年には織田信長と不仲となった将軍足利義昭が毛利氏を頼って鞆に来住(小早川家文書・吉川家文書),同16年帰京まで鞆付近に滞在していた。義昭の最初の旅宿は鞆江ノ浦町内の公方と呼ばれる地と伝え(福山志料),鞆には側近が集まり,よりいっそう活況を呈したようである。なお義昭警固の功で因島の村上祐康や山田一乗山城主渡辺元に白傘袋・毛氈の鞍覆の免許が与えられている(因島村上文書・常国寺文書)。毛利氏は内海水運の掌握に努め,天正4年伊予板島の領主西園寺宣久が鞆に寄港した際には警固船50艘ばかりを都合しているほか,鞆助安を日北から牛窓まで同行させている(伊勢参宮海陸之記)。また毛利氏は御用船を掌握していたと思われ,天正年間鞆の河井源左衛門尉船は直接伊予への渡航を許されず,鞆と塩飽の間で待機させられている(閥閲録)。豊臣秀吉も内海交通を重視し,同20年正月24日毛利輝元に瀬戸から尾道までの継船の準備を命じ(毛利家文書),鞆にも船奉行のもとに継船が置かれている(閥閲録遺漏3‐3)。また慶長2年7月27日慶長の役に際しても早船2艘を鞆に置くよう命じている(毛利家文書)。毛利氏も文禄4年鞆を直轄領として三上元安に預け置いているが,元安は朝鮮への兵糧運送などの業務にあたっていたという(閥閲録128)。慶長元年には鞆における宿泊担当の奉行として桂元武・三上元安らの名が見える(閥閲録遺漏3‐1)。関ケ原の戦後毛利氏に代わって芸備に入国した福島氏は領国内の検地を実施し,鞆は町方としての鞆町と,村方としての後地村に分割された。なお鞆では長い間遺跡は全く知られていなかったが,草戸千軒町遺跡や尾道市街地遺跡の調査結果から市街地下に遺構の存在することが予想されるようになり,昭和53年以来発掘調査が行われ,鞆の往時の繁栄が考古学上からも明らかにされつつある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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