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西町(近世)


 江戸期の町名。三原西町ともいう。三原町のうち。町割は福島氏時代に行われた。東西に通じる幅3間の西国街道(山陽道)の南北20間ずつを町分(狭称の西町)とし,その周辺の西野村内に形成された町を地方分(西地方)とし,東町を合わせて三原町と汎称され,寺社町奉行(町奉行)の所轄となる。正保3年備後国之内三原城所によれば,河原谷川の橋より西の小路340間とあり,文政2年の「三原志稿」には,往還筋の町372間余のうちに古魚店86間余・中町74間・西中町88間余・中間町123間余がある。中町と西中町は恵下谷川に架かる中橋でつながっていたところから橋東・橋西という区分けもされた。往還沿い以外の町名に,魚店・浮世川・西浜・新町がある。寛政2年に橋東を1丁目(古魚店)・2丁目(中町),橋西を3丁目(西中町)・4丁目(中間町),新町を浮世川と新町の6区に区分した(役方諸用覚/川口家文書)。街道に面する小路には,北側東から大徳院小路・宗光寺小路・河原小路・油屋小路・大善寺小路・彦助小路・順勝寺小路・蓮華小路・胡摩屋小路・宮小路,南側東から魚屋小路・松林小路・中庵小路・玖波小路・瓦場小路があり,街道に面しない小路に鷲部屋小路・二葉小路・饅頭屋小路などがあった。また北側に昔,太雲寺の会下寮があったことによるともいう会下谷,かつて瓦を製した谷が転訛したという河原谷がある。町分は無年貢地。西地方は,「国郡志書出帳」によると,西野村から分離されたもので,畝数22町5反余・高164石余で,その後の開発にかかる鍛冶新開畝数6反余・高9石余,助一郎新開畝数3反余・高4石余を合わせると,畝数23町余・高178石余。戸数・人数は,寛文11年243・2,291,安永2年西町1,965人・西地方1,431人,文政2年西町338(530竈)・2,112,西地方324(727竈)・2,235,天保12年西町495・1,851,西地方388・2,326。「三原志稿」によると,西町2,112人のうち男1,146,また町人974・職人49・浮世過(日雇稼)46,西地方2,235人のうち男1,094,また百姓136・町人47・浮世過870。宝永6年の西町絵図の書付によると,竈数507軒のうち諸職人144竈,大工・鍛冶・紺屋・桶屋・小間物屋・酒屋など18職種をあげ,他に穀物・味噌・塩・木綿等諸事荒物・魚屋・八百屋を記している。天保4年会下谷道が馬道に改修。「三原志稿」によると,神社には西宮八幡宮,厳島・稲荷大明神,住吉神社など,寺院は東町と同様に天正年間の三原城修築造営の頃に沼田【ぬた】地方から移されたと伝えるものが多い。真言宗には本宮山生田寺・円明山大徳寺(もと定恵寺)・医王山万福寺(もと宗光寺の地)・新宮山釜山寺・竜原山奥蔵院・中台院,曹洞宗に泰雲山宗光寺(もと匡真寺)・桂谷山香積寺・東日山法常寺・神応山成就寺,浄土宗に増上山大善寺,日蓮宗に無量山妙正寺(もと東町米田山麓にあり,享保9年移寺)・妙栄山寿徳寺・久遠山本成寺,浄土真宗に高隆山順勝寺・運入山浄念寺・浄華山明真寺がある。「芸藩通志」によると,廃寺に禅宗福寿院・林古庵,真言宗に永正寺・東漸寺・天徳寺・葛子寺・金剛寺・多福軒・寿福院・泉光庵など,墳墓に永仁年間の造立とみられる七重石塔と福島正之墓が宗光寺に,三原浅野氏3代以降の墓が妙正寺にある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7423148