堀川町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は広島城下新町組に属す広島城の南,西国街道に沿い,西は平田屋川を挟んで平田屋町,東は鈄屋【ちぎや】町町名は,広島城築城の時,石材木材搬入のため開削された平田屋川近辺に初めて町家が建てられ,堀川新町と呼ばれたことに始まる(知新集)「秋長夜話」では新堀川町,のち新町とも呼ぶと記す元和5年の城下絵図では町間数1町54間寛永2年の家数改では本家52・借屋86「知新集」によれば石橋2・町門2(流川筋・川場筋),町間数3町13間余,家数82・竈数103(本竈28・借竈75)・人数431うち畳刺9・指物師6・売薬師3,矢師・傘釣灯張・傘張・革細工・桶屋・青染・塗師・仕立物師各2,本道医・針治導引・紺屋・筆結・鋳懸師・菓子師各1傘屋はのち釣灯屋と改め,御用の傘・釣灯を製作,春田藤七家は兜師で,ともに浅野氏入国時に随従(知新集)地内には浄土宗般舟寺・真宗永照寺がある(昭和43年いずれも西区へ移転)平田屋川土手には堀川蔵と呼ばれる国産物蔵が,文政元年町屋を買上げて設置江戸へ送る国産物受引の役所となった(同前)堀川蔵南隣の貯米蔵は寛政6年の建設,般舟寺前から胡町に抜ける小路は夫婦小路(同前,藩士邸宅明細図/芸藩志)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる明治15年下流川町・向川場町の各一部を編入同16年の広島諸商仕入買物案内記では仏壇製造卸4,乾物卸・髪附油卸・漆製造卸・嫁入道具仏壇金具製造・旅館各2,ほか11江戸期以来の老舗菓子商の虎屋・家具仏壇仏具商など各種の商店が軒を並べた同32年には八千代座を中心に広島中央勧商場が設立場内には小間物店・鉄砲打ち・玉ころがしなどの遊技場が開店当時商業の中心は中島地区にあり,東部商業の不振挽回の一策として設立されたが,多くは閉店し寂れていた(明治33年の広島繁昌記)大正10年にはこの跡地に新天地が誕生,劇場・映画館・カフェー・料理店などが開業し,北の八丁堀とともに新しい盛り場としてにぎわった昭和2年には新天地に接続して薬研堀【やげんぼり】から流川筋にかけて東新天地が設立戸口は,大正11年243・926,昭和26年世帯数144・人口632同40年一部が流川町・本通・袋町・新天地となり,鈄屋町・胡【えびす】町・東胡町・薬研堀・下流川町の各一部を編入同55年中区の町名となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7423664 |