今津(近世)

江戸期~明治6年の地名。周防【すおう】国玖珂【くが】郡のうち。江戸期は岩国城下の一部。町人地を今津町と称する。岩国藩の城下町建設の一環として,今津村の南部,今津川左岸に,慶長年間に船手組を中心とする武家地や港湾の諸施設を中心に形成され,中央部に町人地があった。船手組の屋敷地は八幡下から宛の木地区,次いで町人地を挟み,砂原・野地地区から成っていた。武家地の屋敷数は慶安4年の検地で107軒,寛文年間140軒うち侍屋敷67・水夫屋敷57・萩御蔵屋敷1・通津御蔵屋敷1・御茶屋御蔵御船固屋共4・寺社屋敷3・地子屋敷7(古村記),享保17年145軒のうち本屋敷125・下屋敷4・御用屋敷5・寺社屋敷3などであった(享保増補村記)。宛の木中ほどの川端にいわゆる萩蔵があった。この地は寛永4年萩藩に貸与し,萩藩が蔵屋敷を設けた(岩国徴古館蔵岩邑年代記)。萩藩領山代地方で生産される紙を一時この蔵に貯蔵し,さらに大坂へ輸送した。また米塩などがここから山代地方へ送り込まれていた(注進案)。砂原地区は町境より東端横町まで2町25間,左右に侍屋敷があり,その南川寄りの地区に,御茶屋,米蔵,川口番所,灯籠堂,的場,舟入りなどがあった。御茶屋は藩主の休息所であり,また今津船手の奉行所でもあった。米蔵脇の川端には高札場があり,石州街道の起点となっていた。この米蔵付近は特に白蛇が多く生息し,江戸期後半から知られるようになった。野地地区は船手水夫の居住地であった。今津川下流には次々と干拓地が広がり,船の出入りが不便になったので,文化8年麻里布浦に新湊をつくった。町人地は,慶長6年の城下町建設計画では武家地になっていたが,慶安年間に町人地とした。慶安4年の検地にその名が見え,初めて町屋敷34軒が登録される。寛文年間26軒(古村記),享保11年77軒・人数556(男287・女269),廻船32艘・艜48艘であった(享保増補村記)。町人地は本町・上町・中町・下町の4区に分かれ,町年寄1人,目代1人で町奉行の支配下にあった(同前)。町年寄はたいてい船持でもあり,廻船総代役を兼ねた。当町は廻船問屋や船宿の設備などももっていた。弘化2年当町へ綿用場,売会所が設置された。明治6年今津村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7424650 |





