宇佐村(近世)

江戸期~明治22年の村名。玖珂郡のうち。萩藩領。奥山代宰判に属す。慶長5年検地帳や「天保郷帳」では宇佐郷村を含み,「地下上申」に村名は見えない。村高は,慶長5年検地帳243石余,同15年検地帳505石余,寛永2年検地帳1,052石余,「元禄郷帳」346石余,「天保郷帳」1,656石余,「注進案」「旧高旧領」ともに1,118石余。寛永2年諸臣知行替えの後は給領地はない。小村に常国・中村・下組・山崎があり,小名に常国・日和・勘十・夏焼・中原・入江平・河津・槙原・上ケの原・黒沼田・浦石・浜子・足谷・神田・細原・山崎・柏原・田代・相波がある(注進案)。慶長13年10月,当村庄屋七良兵衛(広兼家)らを指導者として年貢収奪強化策に反対する一揆が起こり,本郷の城山に立てこもり愁訴したが,藩兵に取り鎮められた。翌14年3月,11人は引地垰で処刑され,首を物河の川原にさらされた(本郷村誌)。慶長15年検地帳では田35町2反余,畑43町4反余,寛永2年の検地帳では田39町6反余,畑59町余。寛永2年検地では田は反当たり1石7斗余,畑は反当たり3斗余で,それぞれ慶長15年検地の1.7~1.8倍の石盛をし,また小物成も28石余から127石余と約4.5倍の増加を示す。紙専売制度施行への準備のため,土地不相応の石盛がなされた(防長造紙史研究)。寛永8年から藩は紙の専売制度を実施し,同時に楮や紙の御仕入銀(上納代銀)を定め,紙の上納を義務づけて当宰判下の貢租を紙で代納清算する制度をとり,漉紙のほぼ全量を貢租として吸収するよう石盛し,農民には楮や紙の請量を定めた(請紙制度)。当村の年貢米の御蔵は中原・夏焼・上ケ畑に設置されていた(注進案)。元禄年間中期のころからは楮不足が慢性化し,農民は買楮・買紙・銀などで補うほかなく,門目を潰す農民も続出。村は次第に窮乏化し,享保3年ついに山代農民の一揆が勃発した。天保12年の家数201うち家大工2,人数614(男323・女291),請楮は222釜余(1釜は標準紙20束分)で最盛期の2割5分減,うち楮の実際の生産量は208釜余で紙に漉かれて上納,手取り銀は,御仕入銀から諸上納銀を差し引き987匁余,ほかにコーラ(すげ科植物)細工のミノ・ハバキ・靴,蕨繊やその細工品の莚や靴,ワサビ・薬草,木材・板・炭・松茸・熊・猪・鹿・山鳥などと合わせ20貫162匁余。食糧は,諸上納米差し引き残り351石余の手取り米222石余(御仕入銀の一部勘渡米を含む),雑穀501石余の合計723石余で,小芋700貫,大根1万5,000貫余など混ぜ合わせて補った(注進案)。また,寛文10年の筒井八幡宮氏子駈帳に,防州宇佐村木地屋6~7戸,宝永4年に防州宇佐村杓子6~7軒などの記載がある(木地師支配制度の研究)。慶応2年,第2次長州戦争では安芸北部境の守備は,山代居住の武士を小隊司令とする当村の農兵が交代で行い,開戦より約1か月間は78人もの農兵が繰り出された(芸州口合戦之節諸出張其外軍監井上小太郎参謀久保無二三ヨリ之申出書面並於部署詮議之分共合冊)。神社には鎮守宇佐八幡宮がある。社伝に,天仁元年,豊前国の宇佐八幡宮を勧請とある(注進案)。「寺社由来」には,正和元年勧請とする。境内に「永享九年八月吉日,山代庄宇佐村長兼」と銘のある鉄灯籠があり,現在は壊れているが,昭和51年に県文化財に指定された。棟札に天文12年・同22年・元亀4年・慶長15年・安永2年・弘化2年のものがある(錦町風土記)。寺院に曹洞宗竜淵山玉蔵寺がある。ほかに真宗荘厳山法専寺があり,元禄元年開基(注進案)。明治4年山口県に所属。同22年高根村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7424718 |