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周防国


毛利輝元は関ケ原の戦に敗れ,周防・長門2国に減封され,長門国萩に築城した。慶長15年の検地の結果,周防国29万6,040石余(長門国との総石高53万9,286石余),6郡・151か村,田畑2万6,396町余となる。慶長5年岩国領3万石(寛永年間の検地で6万1石余),元和3年徳山藩3万1,400石(同4万10石)を分知した。正徳5年都濃郡久米村万役【まんにやく】山で徳山藩は萩藩との間に境界争いをおこし,3年間断絶の処分となった。萩藩領には代官管轄の行政区画として,大島・奥山代・前山代・上関・熊毛・都濃【つの】・三田尻・徳地【とくじ】・山口・小郡【おごおり】の10宰判を設置した。また,ほかに中関宰判を置いたことがある。中国路(山陽道筋)に沿って,23の宿駅を設け,馬継を行った。その宿駅は小瀬・関戸・御庄・柱野・玖珂本郷・高森・今市・呼坂・甲垰【こうだお】・窪市・花岡市・久米市・遠石【といし】・野上・富田【とんだ】市・福川・矢地・富海【とのみ】・浮野【うけの】・宮市・小俣・陶【すえ】市・小郡である。安芸国境の小瀬川から周防・長門両国境の割小松までの大道・中国筋24里2町50間を測った。ほかに大道が三田尻~一ノ坂,宮野~小郡,生山~星坂,中道に亀尾川~地福,賀野~三田尻,小道に高森~宮野など23道あった(周防国大道小道帳)。萩藩主の参勤・帰国が海路(三田尻~兵庫)・陸路の併用から,惣陸路使用に転換するのは,享保10年にはじまり,宝暦7年からは全面的な採用となった。毛利重就は,宝暦改革のなかで検地を行い,小村帳,小村絵図を作成した。周防国内の萩藩領は38万9,678石余,田畑3万2,188町余,増収分4万1,600石で撫育方を新設して殖産興業を推進した。特に中関・西浦・二島・青江などの沿岸部で開発をすすめ,その大部分を塩田経営にあて,三田尻浜は防長塩業の中心地となった。塩田は,ほかに干拓地の小松・平生【ひらお】・下松・富田・福川・小郡などで操業した。また中関と室積に越荷方を設け,諸国の廻船に銀貸し・倉庫業を営んだ。米・塩とともに防長四白にあげられた生蝋は大島・上関・熊毛地方,紙は山代・徳地地方を主産地とし,藩が専売制を強めた。瀬戸内側の大島・柳井【やない】・防府【ほうふ】・小郡などで綿・木綿織生産が発達した。周防・長門国境の山口市宮野金山で採掘した一ノ坂銀山は,近世初期稼行し,一坂判銀などを鋳造,現在20余か所のマブ(採鉱坑)が残る。米以下の商品の遠隔輸送は,舟運による海路を使い,今津・柳井・上関・富田・福川・三田尻・中関などの海津から,廻船で大坂に向かうのが主流となった。三田尻には萩藩船倉・御茶屋,上関には御茶屋・客館を置き,朝鮮通信使も上関に寄航した。享保2~6年岩国藩領の由宇・玖珂・柳井を中心とする一揆が,萩藩なみの年貢と萩本藩への編入を要求し,また天保2年吉敷郡小鯖で端を発した百姓一揆は,三田尻・山口・小郡からさらに藩内各地に波及し,年貢軽減・村政改革をかかげて藩政はじまって以来の規模に発展し,天保改革の要因となった。萩藩は開国以後,尊王攘夷運動の拠点になり,毛利敬親が文久3年屋形を山口へ移し,赤間関で攘夷を決行,米仏艦隊を砲撃したが,翌年幕府は第1次長州戦争の軍をおこし,加えて四国連合艦隊が赤間関の砲台を占領した。次いで慶応2年(第2次)長州戦争では,幕府軍は大島口・芸州口・石州口・小倉口の四境から攻めたが,長州軍は各地で幕府軍を撃退した。その主力となったのは,奇兵隊(吉田)をはじめ,御楯隊(三田尻)・鴻城隊(山口)・膺懲隊(得地)をはじめとする諸隊であった。なお藩庁移転に伴い,山口明倫館が開設。徳山藩の学館は鳴鳳館(のち興譲館),岩国藩領は養老館,三田尻に越氏塾を開いた。明治2年萩・薩摩両藩の主唱で版籍奉還が実現し,山口藩・徳山藩・岩国藩にそれぞれ藩知事を任命,屋形の地を藩庁に定めた。同4年7月,太政官政府のもとで廃藩置県が断行され,山口藩(6月に徳山藩を合併)と支藩の岩国藩,長門国の豊浦・清末2藩は,山口県・岩国県・豊浦県・清末県に改編された。同年11月この4県を統合して山口県が成立し,山口に県庁を置いた。県域は旧周防・長門両国域をそのまま踏襲し,特に大内・毛利氏支配下の地域的まとまりを継承しながら,7世紀末以来の行政単位であった周防国は,その歴史的役割を終えた。明治2年当時,旧周防国の地域は山口藩領分180村・40万6,917石余,徳山藩領分31村・6万8,319石余,岩国藩領分87村・7万8,950石余(旧高旧領)。旧周防国内における現行自治体は8市・22町・1村である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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