幡生(近代)

明治22年~昭和55年の大字名。はじめ豊東下村,明治31年生野村,大正10年からは下関市の大字。明治24年の戸数86・人口484(男236・女248),厩7,寺院1,学校1,水車場1(徴発物件一覧)。明治34年山陽鉄道(現JR山陽本線)の開通に伴い,幡生駅が開設され,大正3年には長州鉄道(現JR山陰本線)が後田の東下関駅から小串まで開通し,当地に幡生駅が設置された。大正14年には長州鉄道の幡生~小串間が国鉄に買収され,残りの路線は,昭和3年山陽電気軌道に買収された。同年には山陽本線が複線化し,これと同時に鉄道の路線も椋野を迂回していたのを川中地区を通るように変更された。同14年新地~幡生間の舗装工事が完成。同年国鉄幡生駅および武久地下道新設工事着工。同32年起工の山の田土地区画整理事業が同34年に完成し,住宅団地が次々に建設された。同37年下関市立大学が山の田に開校,前身は昭和31年創設の市立下関商業短期大学。同42年市医師会医療センターが山の田に完成。同44年権現山麓に東部配水池が完成。世帯数・人口は,大正14年293・1,222,昭和5年365・1,565(男814・女751),同10年446・2,016(男1,028・女988),同25年764・3,562(男1,912・女1,650),同35年1,444・5,893(男2,852・女3,041),同45年47・159(男78・女81),同50年45・148(男71・女77)。一部が昭和36年山の田南町・山の田中央町・山の田本町,同39年幡生町1丁目・椋野町1丁目,同41年幡生東本町,同42年幡生町2丁目・幡生本町・幡生宮の下町・山の田東町・武久町1丁目・後田町5丁目・山の田南町,同45年大学町1~4丁目・生野町1~2丁目・宝町,同46年稗田南町となり,残部は同55年山の田北町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426227 |





