見島(近世)

江戸期~明治22年の村名。長門国見島郡のうち。1村で1郡を形成。萩藩領。浜崎宰判に属す。村高は,慶長5年検地帳572石余,同15年検地帳852石余,寛永2年検地帳も852石余,「元禄郷帳」584石余,天文4年1,056石余うち地方976石余・浦方80石余(地下上申),寛政元年1,307石余うち地方1,227石余・浦方80石余(浜崎宰判浦島石高其外付立一紙),「天保郷帳」1,206石余,安政2年1,307石余うち地方1,227石余・浦方80石余(郡中大略),「旧高旧領」では1,307石余うち地方1,227石余・浦方80石余。慶長15年検地帳によると,田73町8反余・畑112町9反余,屋敷96軒・浦屋敷29軒。安政2年の田畑面積は田101町2反余・畑191町4反余(郡中大略)。地方の小名に東通・西通・江水通・沖通・瀬畑・田屋通・田中・脇通・宇津村・三見田・五間家,浦方の小名に鶴江・黒石・飛瀬・浦の浜がある(浜崎宰判浦島石高其外付立一紙)。家数・人数は,元文4年地方255・1,251うち男648・女603,浦方91・376うち男187・女189(地下上申),安政2年地方236・1,294うち男665・女629,浦方72・349うち男174・女175(郡中大略)。船数は,元文4年に31艘,うち50石積1・45石積1・35石積3・15石積7・猟船19(地下上申),安政2年に荷方船4艘・萩通船8艘・漁船13艘(郡中大略)。江戸期を通じて,島内民政は郡老あるいは一老と称せられた山田氏に委任され,出入船舶の検察と異国船に対する警備も重要な任務とされた。幕末には当村に軍用方の会所が設けられ,本村・高見山・観音崎の3か所に砲台が築かれ,イクラゲ山には望楼が建てられた。山田氏は軍用方の役人に任命され,農兵隊5隊を編成し,砲技などを訓練させ,海防の任にあたった(見島総合学術調査報告)。雲丹と海苔は,見島の特産として藩に納められ,藩主の食膳にも供せられた。また鮑は大型で美味なために,毎年切漬けにして将軍への献上品とされ,大部分は俵物として清国に輸出された(同前)。安政3年前大津宰判の通・瀬戸崎両浦鯨組が不漁のため,新しい網代が見島に計画され,同4年九州鯨組漁人を雇傭して見島鯨組が編成された(見島の今昔)。神社に八幡宮(見島神社)・客幡宮・住吉社(住吉神社)などがあり,寺院に浄土宗海福山吉祥寺がある(寺社由来)。城ケ下に御番所1,船付ノ上りに御高札場1,客幡宮境内に御米蔵1と御米蔵番屋1があった(郡中大略)。大砲台場は高見山・宇津観音平・城ケ下に1か所ずつ,城ケ下に大砲台場御道具蔵1,イクラゲ山に遠見番所1,高見山に焔硝蔵1,別家ノ口に軍用方会所1・台場方会所1があった(郡中大略)。明治4年山口県に所属。同12年に1戸長の管掌となり,戸長役場が本村に置かれた。同16年の戸数376・人口1,951(県の統計百年)。同年見島郵便局が開設された。同18年には見島小学校が創設され,同21年見島簡易小学校となった。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426556 |





