椋野(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ豊東下村,明治31年生野村,大正10年からは下関市の大字。明治24年の戸数68・人口386(男199・女187),厩30,寺院1,学校1(徴発物件一覧)。明治24年ドイツ人メッケル少佐の設計による椋野の砲台が完成(下関市史)。以後第2次大戦の終結時まで,火の山一帯には陸軍の要塞が設けられていた。椋野の菊は大正12,3年頃が最盛期で,秋には関門各地から観光客がおしかけた(下関市史)。明治34年山陽鉄道(現JR山陽本線)が開通し,当地区内を通っていたが,昭和3年山陽本線の複線化に伴う路線変更により廃止された。昭和5年市営関山墓地設定。同33年に関門国道トンネルが開通し,その車道の入口が当地に設けられた。昭和37年には貴船町と直結する椋野トンネルが開通。また,火の山パークウエーが同47年開通。昭和40年火の山山頂国際海上超短波無線電話局が完成し,船舶の関門海峡出入が能率化された。同48年には360度回転式の火の山展望台が完成。同50年には中国自動車道が開通,当地に下関インターチェンジが設けられた。一部が昭和39年椋野町1丁目・みもすそ川町・本町4丁目,同59年卸新町となる。世帯数・人口は,大正14年139・622,昭和5年130・608(男306・女302),同10年123・594(男291・女303),同25年145・745(男350・女395),同35年190・932(男442・女490),同45年257・961,同50年309・1,105(男551・女554),同60年343・1,105(男575・女530)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426641 |





