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浅川(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ浅川村,昭和30年からは海南町の大字。明治24年の戸数212・人口1,226(男651・女575),寺7,学校1,船34(徴発物件一覧表)。伊勢田鉱山は大正14年には従業員50人。年産約40万~50万貫(当時の価格は1万貫が800円)の黄銅鉱を産出していた。昭和4年より三菱金属鉱業の所有となり,同8年まで続いたが,最盛時には約100人の従業員がいた。浅川は伊勢田鉱山によって一時にぎわいをみせた。昭和30年浅川浦を合併。昭和32年浅川の機帆船高砂丸が日ノ御埼北西5海里の地点で火災を起こし沈没した。その際高砂丸の乗組員を救助しようとして海中に飛び込み,自らも殉職したデンマーク船エレンマーク号の機関長ヨハネス・クヌッセンの頌徳碑が,浅川港の近くにある。加島の国民宿舎下の磯辺に,中生代白亜紀の古生物の生態と古水流の化石といわれる底痕群があり,昭和52年に県天然記念物に指定された。八坂八浜の中にある鯖大師は,近年四国霊場八十八か所番外札所として四国遍路の参拝者が多くなり,大きな宿泊施設ができている。また大砂は室戸阿南海岸国定公園中の景勝地で,町営の海水浴場がある。浅川の伊勢田・粟ノ浦・鯖瀬は,稲の早期栽培が盛んである。そのほか花卉栽培や蔬菜のハウス栽培が行われている。伊勢田川流域は梅の産地として知られていたが,近年はユズやスダチに転向している。稲地区の町筋は,国道55号が山手を開通したため活気に乏しくなり,買物などは海南町四方原のスーパーや牟岐町へ出向く人が多くなっている。浅川小学校は,昭和57年新築,6学級・157人の児童が在学している。昭和59年の世帯数・人口は,鯖瀬19・84,粟ノ浦47・139,太田46・148,伊勢田96・342,稲113・386,浦上17・74,新屋敷53・154,スカサキ28・80,ミヤノ町17・43,西上27・92,西下29・107,仲町24・71,東上49・154,東下51・146,蝦ケ池1・2。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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